『人魚姫』 第八話
無言でジェイドの執務室まで行った。
引かれた手は、きつく捕まれたまま、ルークはまだ慣れない足を精一杯使いながら、やや早足で歩くジェイドに半ば引きずられるようにして連れて行かれる。
書類や、資料が整頓されているジェイドの執務室。初めて入ったのに、ジェイドの香りがする部屋に入ると何だか安心した。陸に来てからずっと緊張していたから、大分助かった。
ルークが部屋に入ったのを確認するとジェイドは扉の鍵をカチリとかけた。
「何故、戻ってきたのです」
吐き出すように、ジェイドが言った。扉に頭を押し付け、ルークを見ないように、肺の奥から空気を出すように。
その様子はルークがあの過去の映像で見たのと同じように悲しく、歪んでいた。
「何故って……。ジェイドに会いに来たんだ」
「それはどういう意味ですか」
イライラとジェイドの声の温度が下がった。口調も荒い。
意味が分からないとため息が聞こえた。子どもだと飽きられたのかもしれないな、ルークはジェイドの背中を見つめながら、頭の中を整理しながら話す。
「……俺、分かったよ。ジェイド。ジェイドと俺が初めて会ったのは7年前だって事」
ルークが静かに、ジェイドに告げた。
それはジェイドが最も恐れていた事実。隠し通そうと、彼が何かのはずみで知れないようにピオニーにも釘を刺した。
アッシュだって、それは同じだったろう。
「それ、で?」
ジェイドの口の中が渇く。
上手く声が出せずに、かすれた声になる。動揺しているのは分かっている。
ルークは、少し困った様に微笑むんだ。言ってもジェイドは平気かなと思いながら、言葉を選ぶ余裕も無くて。
「ジェイドが、俺を殺して、ネビリムさんっていう人の身体が、今の俺の身体だって事」
ルークが、まぶたを伏せて、ジェイドに罪を聴かせる。
「ジェイドは子ども作れない事。ジェイドが……俺と会っちゃいけなかった事」
扉に鍵をかけてから動かないジェイドの背中にルークは歩み寄ると、垂らされた腕を自分の方に引っ張った。
「それなのに怪我をした俺を助けてくれて、介抱してくれて……海に帰してくれたんだ」
ありがとう、ルークが言った。
ジェイドは胸が奥が少し温かいような、むずがゆいような複雑な気分に戸惑いを隠せない。
胸の灯火に気付いてはいけない。これは、捨てなければならない。自分の為に、ルークの為に。
「な、こっち向いて」
ルークがジェイドの腕を引っ張って、身体ごと振り返らせた。
「俺の契約は俺の名前を捨てる事、俺の髪を渡す事……もう海には帰らない事だ」
「馬鹿な。そこまでして、どうするつもりなんですか」
ルークがまっすぐにジェイドを見つめていた。
自分の犯した罪とルークが犯そうとしている罪に甘い香りがする。
その罪を味わったら、きっともう以前の自分には戻れない。ルークは汚れ、自分は狂気のような愛を捧げるのだろう。
温かい、この子どもに。
灯火と呼べるほども大きさでもない、胸の想いは、伝わっているのだろうか?
「ジェイドが、泣いてたんだ。俺、ジェイドが泣いて欲しくない」
だから泣くな、ルークがジェイドの頬に手を当てた。
つつつとルークの指がジェイドの頬を撫でて……温かく流れた涙を掬い取った。
「私があなたに何をしたのか、分かって言ってますか?動かないあなたの身体を辱めたのですよ?」
「知ってる」
「信頼してくれていたあなたの腹を生きたまま開いてたんですよ?」
「知ってる」
「……生きているあなたを見て、あなたの存在に恋焦れていたんですよ?」
「うん」
「契約を破って、あなたを……」
「いいから、ジェイド」
泣かないで。
ルークがジェイドの頭をギュッと抱きしめて、何度もキスをした。
「馬鹿ですねぇ、あなたも」
記憶が無いのに、ちっとも変わってません。ジェイドの漏らした言葉にルークが微笑んだ。
「お前も馬鹿だよ」
どうして、胸の灯火を思い出させるのか。折角離れたのに。
もう間違いを起こさないように、焦がれた気持ちを、押し込んだのに。
「ジェイド」
こぼれた涙をルークの唇が優しく拭った。
生きなさいと繰り返した師の面影をルークに見た気がした。
「俺の、名前呼んで。名前はもう無いけど、ジェイドだけは俺の名前を覚えていて」
「えぇ、ルーク」
「でーいいようにまとまった訳か。そちらは」
ピオニーが面白そうな顔で……むしろニヤニヤといやらしい表情でルークの顔を覗き込む。
ルークはニコリと、大人びた笑顔ではなく、この間までのような子どもの笑顔で答えた。
「ご迷惑かけましたっ」
「いやいや〜良かった良かった!と、言いたい所だがお前さん、とんだ事してくれたな」
ん?とルークの首がかしげられた。
本当に分かっていないらしい。
ピオニーは大袈裟にため息をついてみせると、びしっと指を立てた。
「お前、アッシュに何も言わずに出てきたらしいな」
「え…あ、あぁまぁ」
「やっこさん、ものすごく怒っていてだな」
「はぁ」
「条約を結びたいと言ってきた」
「はぁ?」
ルークの間抜けた声だけが部屋に響いた。ルークの隣に立っていたジェイドはパチパチと手を叩きながら「おめでとうございます、陛下」と祝いの言葉を述べている。
「条約?」
分からない、とルークがジェイドの方を見ると、ジェイドはニコリと優しく微笑みながら、説明をしてくれた。
ピオニーが即位する時の公約の一つに、陸と海の関係改善が挙げられていた事。
そして今回、アッシュが求めてきた内容。
「まずは互いの文化の交流からだと。それで、だ」
ピオニーはコホンと咳払いすると、立てていた指をそのまますーっとルークに合わせた。
「お前さんは海の代表として、身柄をこちらで預かる事になった」
ルークが、は?と言った。
ジェイドが、ん?と首を捻った。
ピオニーが、ふんっと面倒そうに告げる。
「親善大使だ、『ルーク』」
「でもっ俺!人魚の身体は捨てたし、名前だって!」
捨てたのに!慌ててそう叫ぶルークにピオニーは、優しく首を振った。
「ティアに、なんと言われたんだ?」
「ティア?協力してくれたんですか、あの魔女が」
ジェイドが目を丸くした。
過去にどんなやり取りをしたかは知らないが、あまり良いイメージを持っていないらしい。
ルークは呆気に取られつつもティアに言われた事を思い出す。
「俺に覚悟があるなら、協力するって言ってた」
「その覚悟が契約だったんだ、ルーク。名前は取り上げられてない」
意味が分からないとルークが眉を寄せた。
ジェイドは、ほうと何かを考えるような仕草一つでピオニーの言葉を待っている。
ルークの唇がピオニーを問い詰めるの為に開かれた瞬間に一つ呼吸早くピオニーが喋った。
「名前だけはそのままだルーク。彼女はお前の名前は取り上げなかったんだ。その代わりにアッシュの身体は二度と陸へは上がって来れなくなったがな」
代償が代償を呼ぶ。
ルークが海へ帰ってきた日、アッシュはティアの元へ行っていたらしい。そして事前にティアと仮の契約を結んでいた…との事だった。
あんなにジェイドと会うのを嫌がっていたジェイドが、そんな事をしていたなんて意外でルークは、何も言えなくなる。
でもそれはアッシュからルークに会いに来る事は出来ないという事。つまり、陸の技術が進歩するか、海からの迎えがないと会えないのだ。優しい兄に。
「アッシュに感謝しろよ、ルーク。お前が陸に来た事も海の連中は全員知っている事になる」
だから、海の国の王族として恥じない働きをしろ。
ジェイドに会いたくて、泣かせたくなくて勝手に飛び出した自分に役割がある。
捨てられない優しさに、自然と涙が溢れた。ありがとう、アッシュと呟くと、横に立つジェイドにもたれかかる。
ジェイドの腕がルークを抱きとめた。
「さて、忙しくなるぞ。こたびの事の正式発表はすぐにでもした方がいい。相手の気持ちが変わらない内に色々話し合う事もあるしな。ジェイド・カーティス!」
ピオニーが立ち上がり高々と告げた。
「そなたには海の王子ルークの陸での保証人を命ずる。これは陸の皇帝ピオニー・ウパラ・マルクト9世と魔女ティアの勅命である!」
かしこまりました、とジェイドが頭を垂れた。
「忌禁に触れた罪を、生きて、償え」
そうしてニヤリと笑ったピオニーの顔は、してやったりと少年のようだった。