『人魚姫』 第七話


「っだぁぁぁもぉぉぉ終わるわけが無い!」

皇帝陛下の執務室ではピオニーの悲鳴が上がった。
山のような書類。
押しても押しても減らないのは国民の自主性がよく育っているから喜ばしい事だと言い聞かせても書類が減るわけでもなく。
むしろ増えるわけで。
更に書類が片付かないと幼馴染みの刀懐が人体に支障の出ないギリギリな譜術なり刃なり向けてくるから悪循環だ。
気晴らしに背伸び一つアクビ一つに立ち上がり、そっと執務室を抜け出す。そして隠し通路から、マルクト懐刀のいる部屋に行こうとした瞬間……ぽんっと肩を叩かれた。

「わっちょ、ジェイド。話せば分かる。俺は度重なる重労働に耐えかねでな…」
「執務中に申し訳ありません。あの…陛下?」

振り返ると、部屋付きのメイドの一人だった。

「あ、あぁ。君か。どうした?執務室に来るなんて何かあったか?」

私室の方のメイドだから、ブウサギがまた脱走したのかもしれない。捕まるのに苦労するなぁと嬉しいため息をつくと、メイドは首を横に振った。
メイドは声をかけたのだが気付かなかったから直接、肩を叩いてしまった非礼を詫びた後、眉間に皺を寄せる。

「お客様がいらっしゃったので、お知らせするように言われました」
「客人?私室にか?」
「赤くて短い髪をお持ちで翡翆の瞳をしておりましたが……その。名前を尋ねても答えないんです。兵士に捕まえて貰うには優しい目をして、ブウサギも懐いていたもので」

困り果てた上に相談に来たらしい。
赤い髪に翡翆の瞳に心当たりはあるが、髪は長かった。ついでに陸を歩くには適さない足を持っていた気がする。
誰だろうと思う。
ピオニーは覚悟一つを決めると隠し通路に背を向けて私室へと向かった。




「こんにちわ、陛下」

入ってくるなら目を見開いた皇帝にルークは柔らかく笑顔を作った。そりゃそうか、とルークは思う。
最後に会った時にはまだ足は無かった。
ルークはかけていたソファから立ち上がり、頭を下げた。

「挨拶もなくお訪ねした事をお許し下さい。陛下におかれましては」
「あーいい。固っ苦しいの無しだ。お前は、あのルークなのか?人魚の?」
「……その質問にはお答えできませんが、確かにあの時の人魚です」

ピオニーは何か考えたような表情をした後にルークに座るように指示をして、自らもソファに座った。
心得たメイドがタイミングをはかって甘い香りのする紅茶と茶菓子をテーブルに並べた。

「お前、髪はどうした」

唇を湿らせる為にピオニーが紅茶に口をつけるとルークも、それに合わせて紅茶を一口飲んだ。その頭には、長くて綺麗だった髪がうなじが見える程にさっぱりと無くなっていた。
ルークは慌てる事なく、ゆっくりと口を開いた。

「契約で、渡してきました」
「契約?」
「ティアという海の魔女をご存知ですよね?陛下」

ピオニーの背筋に悪寒が走った。もう二度と聞く事も無いと思っていた名前に驚きが隠せない。
叶えられない願いは無いと、死んだ者さえ生き返らせる事のできる、ローレライの祝福に満ちた魔女。

「俺は陸で生きる為の身体を髪と名前をもって手に入れました。だから、名乗れないのです。名前、無いから」

ふっと、儚く笑う姿は以前に見られなかった気がする。
赤毛の元・人魚はピオニーに向かって、言った。

「ジェイドの為に来ました。会わせて下さい」
「焚きつけたのが俺だから、言いたくは無いが、あいつは会いたくないらしいぞ」
「知ってます」
「あいつが過去に何をしたのか知ってるのか?」
「俺をさらって解剖しました。……その…………あとには」

言いにくいのかルークは言葉につまった。
ピオニーがピクリと眉をひそめた。

「その後?」
「……何でも無いです」

不審がるピオニーをよそに、ルークはジェイドの居場所を聞き出そうとする。
すると、トントンと扉を叩く音がした。

「来客中に失礼します」

ピオニーのルークの間に少しだけ緊張が走った。なぜなら、その声はよく聞いた事がある声で、ルークが一番求めていた声だったからだ。
話題の中心人物。

「入れ」

ピオニーが低く告げると、扉は音もたたずに開き、青い軍服に身を包んだ男が入ってきた。
その知的な顔に驚きが走る。
ピオニーは、ふんっと鼻を鳴らした。

「お前に用事だと。ジェイド」

そのピオニーの顔はまだ納得していない。ルークがそこまでして何故ジェイドに会いに来たのか。

「ルーク」
「……ジェイド」

ピオニーの時に否定した自分の名前を、ルークは優しく受け取って、ジェイドの名を呼んだ。



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