『人魚姫』 第三話
人間の身体も人魚の身体も、質量という言葉の前には何ら変わりは無かった。
男女平均体重60キログラム前後の身体を研究室へ持ち帰るのには骨が折れる。
だから発見したらサンプル程度の少量だけを採取して、腐りやすい内蔵は諦めるしかない。
眼球も、血管も、心臓も。
やりたい事、調べたい事は山ほどあるのに、保護という名の研究者殺しの乱獲防止法律に苛立ちが募る。
体内のどこから、不老不死の細胞があるのか。どこに秘密があるのか。
テキストには載っていても自分で調べた方が分かりやすい。
生の人魚の身体に、憧れを抱いた。
触りたい。
解剖したい。
それが、事件の始まりだった。
「ジェイド。あなた、人魚専門でいくの?」
「ネビリム先生……。はい、そのつもりです」
恩師であるゲルダ・ネビリムが眉を寄せる。
「休暇を取ってから、そればかりね。医療方面に進むのなら、私も手伝う事が出来るけど、どうする?」
「……」
なら人魚の生の死体が欲しいという言葉を飲み込んだ。
破門されては満足な研究がしにくくなる。
持つべきものは頼れる上司。
「上に掛け合って過去の人魚の解剖記録を持ってきて頂けませんか?」
「うちにあるのだけでは足りない?」
「もっと情報が欲しいんです。身体についての」
そう言いきったジェイドの瞳はネビリムの瞳を見つめていなかった。
それでも何か考えがあるのだろうと、ネビリムはため息をつく。
「いいわ。半月位かかるけど、待ってて」
「有難うございます」
「その代わり早く専門研究、決めときなさい。もう漠然と資料見る段階では無いのでしょう?」
「はい」
数週間後、ジェイドの元には資料が揃った。
しかし、どれもが自分の調べた結果と同じで、満足を得る所か物足りない事ばかりである。
結局、物事の最後の部分で「これからの研究課題である」ばかり。ヌラリと、ジェイドの瞳が光った。
「っわ!ジェイドだ!」
砂浜でルークが遊んでいた。
月明かりが眩しい砂浜にルークはウロコを光らせて水しぶきと遊びながらジェイドを待っていたのだ。
海の国で出会ってから、こうして定期的に連絡を取り合っていた。
ジェイドの事を信用しているのかアッシュは連れておらず、幼いルークが一人、ジェイドを待っている。
いつもの光景。
「お疲れさま!仕事終わったのか?」
人懐っこいルークの笑みに何だか悪い事をしている気分になった。
これから何をしようと思っているのか、分かるのは自分だけ。
何かをしようとしてるのも自分だけ。
知識欲の為だけにやる。
分かっている、禁止されている行為だと。
それでも欲して止まないのは。
彼の身体。
中身。
人魚としての身体、外側も内側も動いて活動しているもの全てが欲しい。
「今日は何か変わった事を教わりましたか?」
「今日?今日は〜んと〜普通に歴史の勉強だったな」
「そうですか」
ニコリと笑う彼は人を疑うという神経が無いのだろうか。早く逃げないと、自分に捕まってしまう。
逃げなさい。
逃げないで、解剖させなさい。
心の底に暗い灯りがともる。
「ルーク、私の事、好きですか?」
突然、暗い思考の中に湧いた疑問が口をつく。それが何だというのかは分からない。
ただ、一つ。
好きなら。
「うん、好きだよ。ジェイド」
好きなら解剖させて下さい。
間髪入れずに答えたルークの頭をジェイドの冷たい指先が愛しそうに撫でた。
次に覚えてるのは赤い血の海と、冷たい床。
流れ出している血液は固まりつつあり、瞳孔は開いて……むしろ瞳孔が見当たらず、血色の良かった肌は白く無垢な色をしていた。
開かれた腹を除いて。
腹の中は空だ。全部、腐らないように採取してすぐに綺麗に洗い流しホルマリンに浸けた。
内臓の他にも生殖器も片腕や、足のヒレも。
綺麗な緑色の眼球も。
全て、採取した。
動いていないのはルークの魂を宿らせていた身体だけ。
「……くくく」
歓喜に震える脳内に反して、震える体。
「ふっ…はははははは」
とうとう手に入れた。
大量のサンプルを。
「あははははははははははは」
笑いが止まらない。
その後、結局ルークは生還した。
惨状を発見したネビリムと親友ピオニーが、手を打ったのだ。
恩師ネビリムの命を代償に、アッシュとティアという少女の不思議な力によってルークは生き返った。
五体満足にして、ジェイドに生きながらにして解剖された事はおろか、生前の記憶をなくして、体と魂だけが付着した存在として、だ。
以前のルークであって、ルークでないもの。それが、今のルーク。
アッシュとティアと交わしたの契約内容は二つ。
二度とルークに近寄らない事。
ジェイド自身が恋をして子孫を残さない事。
そして自分から犠牲を望んだ恩師は生きて罪を償いなさいと、最後に笑いながら言った。
ジェイドの拳が強く握られた。
恋などしてはいけない。
行きずりなのだ。
彼に関わってはいけない。
彼は海に帰る、そして何より彼は記憶を持っていない。
忘れているのではない。持っていないのだ。
なのにどうして、あの時の「好き」と言った顔と同じ笑顔で微笑むのか。
解剖の時に味わった深く暗い灯火とは違った色の灯火がジェイドの胸の中で光りだしていた。
本当は、あの時から……。