『あの日から』 後編
「よぅ、ジェイド。遅かったな」
片手を上げて気さくに話かけてくるピオニーを目で制す。
彼の手には、例のペンダント。
「お前も意外にやるやつだったのな」
ニタリと笑われた。
一番見つかって欲しくない人物に見つかって、内心うんざりした。このネタで当分いじめられそうだ。
碧と紅の石のペンダント。以前二人で似た細工のペンダントをプレゼントし合ってしまったため、そのプレゼントし合ったペンダントを職人に再加工してもらったのだ。自分の首に、今でもかけている、あの子がいた証。
未だに外せないでいるソレが服と肌の間ですれる。
まだ、見つからなかった方が良かったのに。あの子どもと一緒に手の届かない場所に行っていれば気休めにもなるのに。
「重要なものです。あまり気安く触らないでください」
「おーおー怖いなぁったく」
そう言いつつもピオニーはジェイドに向かってペンダントを投げる。慌てて受け止めると、ピオニーがケラケラと笑っていた。
「陛下っ」
「大切なものなんだろう?抜いておけよ。ばれやしない」
「皇帝陛下が隠蔽とは国が持ちませんよ」
「言ってろよ、ネクロマンサーの初恋」
痛いところを突かれて、ピオニーの攻撃が止まる。ペンダントが手の平を滑る。
「帰って来る約束したんだろ?そん時に返してやれよ」
「陛下……」
「ま、親友からのささやかな心遣いだ。受け取っておけ」
そして部屋を後にするピオニーの背中を視線だけで追う。敬礼も何もすっかり忘れていたが、それで気を悪くする男ではない。そもそも、敬礼を注意して見ているのかさえ謎だ。
「……」
まったく。
突然呼び出されてなんだとは思ったが、余計な事だ。未練タラタラで忘れられないのも丸分かりだという自覚もあったが、改めて第三者に言われると、焦りを感じずにはいられない。
「ルーク」
ペンダントの石を撫でた。
そこに彼がいるわけではない。しかもこれは自分が彼に贈ったプレゼント。宿る想いは自分のもの。なんだか情けなかった。
「早く帰って来て下さい」
私のために。
未消化の想いのために。
ビクンと身体が動いた。
その反動で手に持っていた羽ペンを落としてしまう。先に付いたインクが紙の上にいびづな線を引いてしまった。
どうやら眠っていたらしい。
「やれやれ、使いものになりませんねぇ」
書類を一枚無駄にしてしまった。
このままサインをしても受理されないだろう。
一応、白インクを用意するが、その面積を綺麗に消せる自信もなく頭の中では既に新しい書類を貰うための言い訳を考え初めていた。
露骨に眠っていたでは済まないだろうから、連日の徹夜などを言ってみようか。
いやいや、ピオニーの相手が疲れたというのも中々使えそうだ。
ふと窓の外を見ると月明かりに反射する水の城壁が見えた。どこまでも青い水が飛沫を上げて、空から流れ落ちている。ぱぁっときらめく水は月の明かりを受けてキラキラと輝く。
幻想的な雰囲気にぼーっとなるが慌てて時計を見た。
もう、真夜中だった。
最後に外を見た時はまだ日が残っていたから、相当の時間、眠ってしまっていたらしい。
ポケットを探ると、昼間取ってきたルークのペンダントの鎖が手袋越しの指に触れた。
ため息をついて、机の上を片付ける。疲れてるのかもしれない。明日は午後出勤しよう、ノンビリ起きて疲れを取ってから仕事を初めれば、書類に関してもいいアイディアが浮かぶかもしれない。
乗り気のしない仕事の書類でうめつくされた机の上を片付ける。窓の外から水が流れ落ちる音がざぁぁぁあっと聞こえてくる。幻想的な雰囲気だな、と思う。キラキラと輝いて。まるで何かが踊っているかのようで。
自分には遠い世界のようで。
首元で、ペンダントが揺れた。
ポケットの中で、ペンダントがちゃりっと音を立てた。
ティアの唇から、風に乗って歌声が谷に響く。
ローレライとの契約を。
今こそ、再び垣間見る奇跡を。
古代イスパニア語によってつむがれる旋律は、耳慣れないものだった。
「ルークは戻ってくるのかなぁ」
大きめの岩に腰かけて空を仰いでいたアニスは、横で祈るように手を合わせているナタリアに声をかけた。
ナタリアはうっすらと瞳を開いて、アニスを見る。
「戻ってきますわ。アッシュと一緒に」
どちらも大切な幼馴染みである。そして、これから先は手を取り合って国を治めていく。必要不可欠な二人。しかし、ナタリアにとってはそれ以上に大切な絆を教えてくれた二人。
「……矢張り、ダメなのかしら」
歌を歌い終わり、ティアが二人の元に戻ってくる。何度も違う曲を試した。何度も契約に関する歌を歌った。だけれども姿はおろか、魂の欠片も見えない。
ローレライはどこに。
「お疲れ、ティア」
「頑張りましたわね」
何とも言えない微笑みをティアに向ける二人。3人で時間を見つけては色々試した。ルークとアッシュが帰ってくるように試行錯誤していた。
ジェイドのように理論・知識があるわけではない。
それでも。
それぞれの思いを胸に、やれるべき事をやろうと。
「つーか、こーんな可愛い美少女達の願いが聞けないわけ?ローレライってば心せまー」
「案外、耳が遠いんではなくて?」
アニスに負けずナタリアが皮肉を言う。しとやかだった王女も、旅の間にアニスから色々感染したらしい。たまに出る言葉の端に見えてはいけないものが見える。
「二人共言い過ぎよ」
ティアがそっとたしなめた。
ナタリアが足元にあったバスケットを持ち上げ、中身を取り出す。お茶セットだ。
可愛らしいクッキーと、パウンドケーキが綺麗に詰まっており、水筒からは甘い香りのする紅茶が入っていた。
アニスがポシェットから敷物を取り出してセレニアの花を避けて敷く。ティアは紙コップを取り出して紅茶を注いだ。
ささやかなお茶の時間だ。三人で集まる度に、こうしてゆっくりとお喋りの時間を持つのだ。いつもはゆっくりとどこかの店に入るのだが、今日はのんびりしようと、景色も良いここで小休憩という事になったのだ。
「やっぱり、ルークは還ってこないのかしら」
湯気の立つ紅茶に唇を寄せて、ティアはぽつんと呟く。
アニスがふん!と鼻をならした。
「案外、アッシュが引き留めてるんじゃない?」
「あら!ならアッシュは帰って来ても良いんじゃなくて?」
すかさずナタリアが突っ込む。
「ぶーぶー知らないよぅローレライの都合なんてぇ」
パウンドケーキにがぶりとかぶりつき、大口でもしゃもしゃと食べるアニスにティアはナプキンを差し出しつつ、ため息を漏らした。
「まだ手はあるんだから、頑張りましょう」
うん、とアニスは大きくうなづく。横でナタリアも、伏せていた瞳を力強く上げた。
「まだ、手が尽きたわけではありませんものね」
誰が何の為とは言わなかった。
生きる事を知った子供に再び生を与える為に。
世界の為に犠牲になった、あの二人の為に。
サラサラとペンが書類の上を走った。たまに印を押して、横に控えている監視兼受理役に渡す。単調だが、終わりの見えない作業。
言い出せなさそうな言葉が口の中で循環している。
彼は幸せだったのか、と。
聞いてはいけない。
それは彼が一番知りたいはずだ。そして、彼が一番知らない答えだ。今、これを聞いてしまっては彼が帰ってこない事を宣言するようでいけない。
いいのか。
駄目なのか。
お節介な性格がうらめしい。
「なぁ。あのペンダント、まだ持ってんのか?」
聞いてしまった。
手は動かしたまま、サラサラと紙の上を走らせる。書類はまだ終わりが見えない。約1センチある紙の束は、話の先を促すように一枚ずつ減らすしかない。
「……いきなり何ですか」
薮から棒に。
傍で控えていたジェイドに聞いた。仕事をサボらないように監視兼受理役をしに執務室に来たものの、一向に黙ったまま何かの報告をするわけでもなく、世間話をするわけでもなく、架空を見てぼんやりしていた幼馴染みは、はぁ?と眉をしかめていた。
「だから、あのペンダントだよ。エルドランド跡地から出てきたやつ」
「あぁ……」
思い当たったのか、ジェイドは眼鏡をわざと光の当たる方向にずらして目元が見えなくする。
何を思うのか、返答はなかなか無い。
「ジェイド?」
言いたい事があるなら、自分に言えばいい。それ位の付き合いだって、義理だって持っている。幼馴染みを何だと思っているんだ、この男。内心毒づいた。
以前、酒を酌み交した事を思い出す。様子がおかしいと思って、やっとの事で聞き出せたのは、子どもが気になるという事。自覚も何もあったものではない。散々時間がかかった記憶があった。
欠落した、感情。
またここに来るのか。
「えぇ、持ってますよ。我ながら女々しいのですが」
たっぷり間を持たせてジェイドが口を開いた。
身につけるわけでもなく、大切にしまってあるらしい。
「どうするだよ、それ」
「おや、陛下が持っていけと仰ったんですよ」
「そうじゃねぇよ」
そうじゃない。そんなのはきっかけにすぎない。
サラサラと走るペンを止めてジェイドを見上げた。
「ルークを迎え入れる準備は出来てるのか?」
しんっと部屋に沈黙が走る。
「ルークが戻って来た時に、お前の隣にルークの居場所があるのか?」
いい加減に気付け。
お前が誰を渇望しているのか。
ジェイドが信じられないというような目で見てきた。何を言わせたいんだと視線で訴えてくる。
何故、ペンダントの行方を尋ねてくるのか。
何故、自分の隣にルークの居場所など尋ねてくるのか。
「俺は、香水を染み込ませた手紙を出していた頃のお前の方が、お前らしいと思う」
再びペンを持ち、サインを書き込んでいく。
サラサラと。よどみなく。
完全したら、ジェイドの目の前にある書類入れにパサリと置く。
お節介を焼く自分が、痛ましい。
香りが途切れたら、返して下さい。
迷惑な頼み事。
アスターは何も言わずに受け取ってくれた。
わざわざ公爵家に手紙を送ったのに別に用意するなんて、我ながら馬鹿な行動だった。
ただ、誰の目にも止めて欲しくなかった。彼だけに見せたかった自分の思い。伝わったのだろうか。
アスターから手紙は返ってこなかったから、恐らく彼は自分からの手紙を持っている。
どこにしまっていたのか、旅の間に手紙をちらりとも見る事はなかったけれども。
もしかしたらなくしたのかもしれない。だったらそっちの方が良かった。
期待していいのだろうか。
一緒に旅をしていた間に交された約束も言葉も全て、期待をしてもいいのだろうか。
彼が再びこの世界に、自分の目の前に現れた時に、もう一度隣に立って歩いてくれるのだろうか。
彼は幸せだったのか。
自信が無い。
そういう言葉の類を使った関係では無かったし、お互いが騙し騙されあいのような駆け引きで保っていた距離だった。
身体を重ねたのだって本当は夢の中の出来事なのかもしれない。夜眠れなくて泣いている子どもをあやす方法の一つだった。たまたまそういう方法を取っただけだったのか、子どもに取らされたのか。
何一つ、この手の中には残っていない。あの子どもが帰って来た時に望むものは何だろう。
ざぁああっと外で風が動く音がした。
はっとジェイドは顔を上げた。どうやら考え込んでいたようだ。横では、うーっと背伸びをするピオニーがニコニコと微笑んでいた。
書類が終わったらしい。
「おっしゃー今日の公務はしゅーりょー!」
途端にガタリと席を立ちピオニーはスタスタと寝室の方に歩いていく。一日お預けだったブウサギと戯れる為だろう。いそいそと歩いて行く様子はとても先程、ジェイドに問い詰めた同一人物には見えない。
「ジェイドも今日はそれ出してきたら休めや〜こんつめは身体に悪いからな!」
へへっとピオニーが扉を開けた瞬間に待ち構えていたブウサギがピオニーに突進して、ピオニーはぐぁっと倒れる。倒れた後はブウサギが次々とピオニーの上に乗り、ブウサギ圧死という歴史的瞬間を間の当たりに出来そうだったが、ピオニーはうははーと幸せそうに笑っていた。
幸せそうに。
彼だって愛しい者を先のレプリカ問題で失ったというのに。
いや、それよりも先に女性との婚約も、にこやかに祝福していた。
不器用な皇帝。
その彼は笑っていた。
「陛下」
どうして笑っていられる。一番愛しい人を何度も失って。
「あん?なんだ?今日はもう仕事はしないぞ」
どうして悲しみを癒せる?
「明日からケテルブルクの視察です。きちんと準備しないと、ネフリーが笑いますよ?」
理解出来ない幼馴染み。
でもそのたくましい抱擁力が。
「うをお!?やっべぇ」
うらやましい。ポケットに入ったままのペンダントと首からさげっぱなしのペンダントがチクリと痛んだ。
遠くで歌声が聞こえた。
懐かしい歌声で、目覚めの歌声で。その歌で長い眠りから覚めたような頭の霞がやや晴れる。
だから重たいマブタを開けなければいけなかった。
ふわふわと満たされた世界はとても気持ち良くて、何もかも忘れそうだった。
例えば自分の名前とか。
例えば自分の気持ちとか。
例えば身体の境界線とか。
例えば旅していた時の傷とか。
吐き気をもよおすような血の香りとか。
例えば壊してしまった小物とか。
母の顔とか。
違う、アッシュの存在とか。
アッシュは、アッシュはどこにいるんだろう。
不意に大きな不安が胸をよぎり、いてもたってもいられなくなる。触りたい。
触れていたい。
傍にいて。
もう自分にはアッシュしかいないんだから。
もう?
どうして「もう」なんてつくんだろう。前に他の誰かがいた?
剣の研き方を教えてくれた。
血の落とし方を教えてくれた。
罪の背負い方を教えてくれた。
それはアッシュじゃなかった。
それはアッシュじゃなかった。
それはアッシュじゃなかった。
それはアッシュじゃなかった。
それはアッシュじゃなかった。
誰。
力強い。違う存在。
思い出せ。
蜂蜜色の、紅い。
手紙をくれた、あの人を。
ふわふわと漂う身体が、一瞬だけ冷える感覚がした。どうしたんだろうと手を見た。
手を。
見れた。
手が見れた。
「あ、れ?」
声が出せた。自分の手首が、もう片方の手首を触れた。恐々と、少しだけ細くなった手首があった。
空を仰ぐと、快晴の青。
頬を撫でる暖かい風。
足元を見ると自分の影がある。どういう事だろうか。足が震えながらも、恐る恐る一歩を踏み出すと、影も一緒に一歩を踏み出した。
さくっと草が鳴る。
頭の中で交じりあっていた自分の境界線がはっきりと感じられた。
ここにいる。
自分はここにいるんだ。
「でも、どうして?」
アッシュは?自分達を包んでいたローレライは?なだめるように歌を奏でていたユリアは?
自分はアッシュでローレライでユリアだったはずなのに。
今は個体となっていた。
身体と空気の境界線がヒヤリとした。もう一度、空を仰いだ。のどの奥がひりひりして、鼻の奥もつんっとする。
「うぅ……うぁ……」
鼻をずずっとすすった。涙があふれ出して止まらない。
心の中で誰かが泣いていた。
寂しいと、叫んでいた。
しかしそれ以上に胸が高鳴る。
ありがとう。
戻ってこれたよ。
温かい涙が頬をすべって地面に落ちた。それでも涙は止まらなくて、優しい風が濡れた頬を撫でる。それさえも嬉しくて。
そのままに任せた。
涙が止まるまで流し続けたせいか、やたら目が痛かった。鼻の頭も真っ赤だろうし、きっと汚い顔をしているだろうし、また笑われるな。ルークは降り立った渓谷から歩き出した。
正確には渓谷だと分かったのは切り立った崖に囲まれた場所だったからで地名が思い出せない。
足元に白い小さい花が咲いてたけれど、それが魔界でしか咲かないはずの花で、誰かが大好きな花で、その花を好きなやつは普段の料理は大雑把なのに、おかし作りだけはやたら上手で……。
名前が思い出せない。
あれ?と思いつつ、足は前へ前へと進んでいく。
そういえば彼女は元気だろうか。料理がすごく上手で、いつも元気だった。へこんでいる時も何気に好物を作ってくれたし、一緒に何時間も話した事もあった。
ぼんやりと頭にかすみがかったみたいに、ぼんやりする。誰だったか。
確か、ずっと生まれた頃からの親友が。
婚約者だった幼馴染みが。
アッシュじゃない誰か。
誰だった?
手紙をくれたのは。
あの香りを、くれたのは。
「え?」
冷や汗が垂れた。重要で肝心な事が何一つ思い出せなかった。不安で仕方ない。
ここには何があるのか、分からない。思い出したい。固有名詞。
頭の中に浮かぶのは、香り。
そして手紙。
どこにやったのだろう。
それさえあれば、全て思い出せそうな気がした。
ふらふらと浮浪者のように歩いていた。
日雇いの仕事で旅の小銭をかせいで、街から街へと手紙を探す日々。
しかしとある雪国の街……ケテルブルクという街で仕事をしていた時。
急にマルクト軍服にかこまれた。手荒な事はされず、むしろ丁寧な扱いを受けた事にかなりの疑問を持ちつつ、雇い主に断りを入れて街の軍施設に向かった。
悪い事をしたわけじゃないのに。
お金を払わなかったわけじゃないのに。
混乱していると、その街にたまたま視察できていた軍人の前に通された。人払いされた部屋で二人きりで、どこか気まずい雰囲気。
蜂蜜色の髪。紅い目。
記憶のどこかで叫び声があがった。
むこうは喰えない表情で、はりつけたような微笑で、でもきっと内心はすごく焦って混乱しているんだろうな、と何故か分かるのに。
誰なのかわからない。
お互い黙ったままの静寂を破ったのは向こう。
「名前を、聞かせていただけますか?」
目の前の軍人は丁寧に左手を差し出しながら聞いてきた。
ごめんなさい。
突然、せきを切ったように涙があふれてきた。
その手が欲しかった。
その手のためにうまれてきた。
なのに。
なのに。
ごめんなさい。
見つけられない。
「うぅあ……」
差し出された手をつかむことも出来ずに、涙が溢れる。見られたくなくて、両手で顔を覆った。
「……泣かなくていいんですよ」
ぎゅっと抱き締められた。涙は止まらないのに、力強く、どこか覚えのある腕で抱き締められて安心した。かすかな記憶が呼びかける。
そういえば、軍服のボタンが邪魔で顔をおしつけると鼻にあたって痛かったとか、長めの襟の下は意外に温かかったとか。グローブ越しに伝わる手は繊細だとか。さらりと垂れる長めの髪がくすぐったいとか。自分のちょっと長めの襟足が好きなのか、よくサラサラと触っていたとか。
霞がかった脳内で、確かな言葉が浮かんできた。
でもそれを言うのはためらわれて。
涙が止まらない。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
馬鹿のように繰り返すたびに、背中を優しい手が撫でた。
「泣かなくていいんです」
彼も同じ事を何回も繰り返した。
「名前を尋ねてもよいですか?」
一通り泣きとおしてから、来客用のソファに二人で並んで腰かけた。懐かしいと思えるようなくすぐったさがあった。彼は自分の頭を肩にもたせかけて、ずっと頭を撫でていてくれる。それが不思議と落ち着いた。
「分からない」
大分しょっぱくなった瞳を伏せて、落ち着いて返事をする。
「アッシュじゃなくて、ローレライじゃなくて、ユリアじゃないんだ」
落ち着いて話せば彼はわかってくれる。
手が優しくて気持ち良い。好きだった、ずっと。いつから?思い出せない。
「記憶喪失ですか?」
「多分。肝心な事だけ思い出せないんだ。主に名前が」
自分の名前さえも。だから仕事を探している時は大分困った。名前が無いのがこんなに大変だと思わなかった。以前の自分は名前さえも嫌な時期があったから。でもどの名前が嫌だったのか分からない。
「あなたは私の知っている人物に酷似しているのですが……名乗っている名前が違いました。自分の名前も覚えていませんか?」
「覚えてない。ごめんな」
「いいえ。私の事も知りませんか?」
「……多分、知ってると思う。けど、よく思い出せない」
「これからどこに向かうつもりだったのですか?短期の仕事をなさっていたでしょう?」
「手紙を」
「手紙?」
「手紙を探しているんだ」
あなたと自分を結ぶための。
「……手紙の特徴は?」
「香りがするんだ。それと、大事な言葉が書いてある」
「内容は覚えていますか?」
それは、いくらなんでも。
「覚えてるけど内緒だ」
だって、思い出すのも恥ずかしいだろ?誰かが頭の中で笑った。
だから、いたずらに笑ったら、彼もくすりと笑った。懐かしい、口元を手で隠す、その笑い方。
思い出すから、待ってて。
「なんだよ、行かせちっまったのか?」
別室で待機していたピオニーが出てきた。いつもの王宮用の私服ではなく、雪国用の厚手のものを着てマフラーまで巻いていた。小さい頃育ったのに、すっかり身体は寒さを忘れていたらしい。寒い寒いと言っていた。
「引き止めても無駄でしょうから」
幾分すっきりした顔でジェイドが答える。
「本人だったんだろ?」
「恐らくは」
「じゃぁどうして?忘れられてたとかいうオチか?」
「大当たりです」
ニコーっと振り返った顔が笑っていた。先程まで彼が座っていた席を眺め、それからきびすを返して簡易執務室へ戻ろうとする。
「ちょ、えぇ!?」
ピオニーが驚いたように素っ頓狂な声をあげた。実際、驚いているのだろう。
「忘れたって、おい!」
「ですから記憶の手がかりになる手紙を探しているそうです」
首元でちゃりっと肌と服の間をペンダントが撫でた。
どこかくすぐったい。まるで以前の二人の関係のような。
「香りのついてある、大事な言葉が載っている手紙だそうですよ」
ポケットの中には彼の分のペンダントが入っている。渡せなかった。
なくしてくれたままでいいのに。
もう香りなんて残っていないだろうに。
笑った顔が昔と一緒だったから、その手を離してしまった。また、会えるだろうか。
「思い出したら」
彼は、その笑ったままの顔で言った。
「思い出したら、みんなに会いにいくから」
でも、みんな、とは誰か思い出せないと言っていた。
「約束したからな」
誰の約束とも言わずに、彼は降り立った。
全てを思い出した、ふっきれた表情で。
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