『人魚姫』 第一話


バチャリ。
水槽の中で、尾が跳ねる。
一体を泳がせておくには十分なそれでいて窮屈な水槽の中は、海と違って荒々しいうねりもなければ、まどろむような揺れも無かった。
食事も与えられ、外敵の恐怖に脅える事もない。
だが、外の様子を知る事も出来なかった。
赤く長い髪を水に遊ばせて、自分専用の広い空間を一人で泳ぐ。擬似的に作られた岩場をくぐり抜け、珊瑚を眺め、気泡を数えた。
会話は日に何回も無い。
自分が嵐の海で怪我した時に手当をしてくれると連れて来た男とだけだった。紅い目を持った、物腰の柔らかい、悪魔のような男。

「おはようございます、ルーク」

朝だけは必ず顔を見にくる男はジェイドと名乗った。
ドジを踏んで怪我をした自分の傷を癒してくれて、今では泳ぐのに支障が無いほどまでになった。油断できないからと、手厚い看護を受けた。

「おはよ、ジェイド」
「体調はいかがですか?」

時間になると、海から顔を上げてジェイドと話をする。
海の中の生活や趣味の話まで、治療の間は色々話した。

「大丈夫。もういつでも海に帰れるぜ」

パシャンと鱗に覆われた尾を水面まで上げて叩いた。
実はあの日、海の底にある屋敷から飛び出したのだ。
それまで屋敷から出た事の無かったルークは賑やかだなと水面まで上がると、そこには豪華な船が花火を上げ、音楽をかきならし、盛大なパーティーが行われていたのだ。皇帝の誕生日だったらしい。
初めて見る陸のパーティーに目を奪われたルークは、そのまま見入っていた。
だから気付かなかったのだ。
嵐に。
船は幾重もの譜術によって守られたが、船の碇が、ぼーっとしていたルークの尾びれをかすめたのだ。
人一人分の大きさがある碇が、ルークの七色を放つ鱗を裂いた。
そのままルークは気を失い、目が覚めた時は既にここにいた。

「体調良好。傷も塞がりましたか」

メモ用紙にサラサラと文字を書く姿をルークはじっと眺める。
自分達にはない、二本の足。
太陽の光を浴びて育った陸の人間。
自分達も陸で呼吸は出来るが、何分、足は歩くという行為には向いていないし、体の作りも陸向けではない。
だいたい二本も足があってよく絡まらないものだと思う。タコやイカと一緒に泳いだ時にも思ったが、意識して動かせる足が二本以上とはどういう感覚なのだろうか。
思わず、じっと見入ってしまう。

「どうかされましたか?」

ルークの熱烈な視線に苦笑しつつジェイドはルークの頭を撫でた。彼はルークの頭を撫でたり、髪に触ったりするのが好きらしい。
治療の間も、スキンシップ程度に触られていた。
水にしっとりと濡れた、赤い髪を。

「んー。や、なんでもない。それより、さ」
「はい?」
「俺、いつになったら海に帰っていいんだ?」

一瞬、ジェイドの目が小さく見開いたような気がした。
しかし、いつも通りに眼鏡を押し上げると(聞いた話、伊達らしい)、ふっと笑った。

「そうですねぇ、もう一度くまなくチェックしなければ、はっきり言えませんが、多分もうそろそろ海に帰って頂いても大丈夫ですよ」

貼り付けたようなジェイドの笑み。
ルークはそれに気付かずに、表情を明るくした。海に帰れる!
いくら抜け出したとは言え、屋敷が恋しくないわけがない。
自分の慣れた環境に帰りたい、ゆっくりしたい。誰かと喋りたい。
嬉しそうに顔を緩ませ、ぴちゃぴちゃと尾を水面に叩いているルークを、ジェイドはただ黙って無表情に見つめていた。








「へぇ。あの人魚の傷、治ったのか」

玉座に腰かけて頬をついていたピオニーはジェイドの報告を聞くと、良かったなぁと微笑んだ。
いくらルークのドジが招いた怪我であろうと、怪我を負わせたのはピオニーの船である。
……実はルークの騒ぎでゴタゴタになってしまっていたが、あの誕生日の船遊びは皇帝暗殺の計画があったと言われている。
ルークを保護した後、ルークを寝かせた客室のベッドの枕の下から毒瓶が発見されたのだ。
幸い料理に混じっている事も飲み物に混入も無かったが、かなりの猛毒であり船乗車員全員に対しても致死量。パーティーは即中止となった。
そういう意味でもルークを引き取って取り調べる必要があった。
本来なら見捨てても構わない、人魚を。

「えぇ。綺麗に鱗も生え揃いましたよ」

ジェイドは君主に対して報告書を読み上げ、あぁついでに、と付け足した。

「船での薬の出処は不明です。しかし困った事にルークが毒を持ち込んだのではという噂がたっています」
「なんだそりゃ」
「彼を運んだ時間と毒を見つけた時間が一緒ですからね。如何しますか?」

パンっと報告書を叩き、ピオニーを見る。ちまらなさそうに笑う男。

「怪しい奴は見つけてあるんだろ?人魚以外で」
「詳しくはフリングス少将から聞いて下さい。彼が筆頭に素晴らしい手際で捜査したんですよ?」
「そりゃ、俺のアスランだからな」

今でこそ嬉しそうに笑っているが、船を降りた後に犯人を殺してやると激情にかられたフリングスをなだめたのは一苦労だったと聞いている。
誰もが羨む関係。
ただし、ピオニーの立場上は非公式であるが。

「で、どうすんだ?」
「何がですか?」
「とぼけんなよ。人魚」
「今は毒の話をですね」
「結果オーライ。助かった話をぶり返すなって」

呑気な皇帝……この場合は楽天家か。
彼はふふんと笑うと指を一本突き上げた。

「気に入ったなら嫁にしちまえ」

ジェイドの口から盛大なため息が同時に漏れる。
何を言い出すのだ。
本当に馬鹿だと思う。

「陛下」
「規制事実を作ってやれば大丈夫だよ」
「相手は人魚です」
「んなのどうにでもなるさ」
「なりません」
「なーるー」

ぶーたれる36歳に頭が痛くなった。
とにかく、無理なものは無理だと、きびすを返した。
恋など、必要ないのだ。
彼を見つけたのも、手当てしたのも、研究の為。成り行き上の事であって自分は愛など知らない。
知ってはいけない。
それが、あの時の彼との契約。
自分が生かされている理由。



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