『あの日から』 前編
たくさんの血をあびた。
夢に見る程の赤い血にめまいがする。赤。赤。
それは目を引き付けて、捕えて、離さない。意図的に避けようとすればまた目に入る。赤。赤。赤。
どこともなく現れた赤い血は、粘液になって足元に忍びよる。気付いたら、靴の裏にはびっちりと血がついていて、靴の中に染み込んでくる。赤。赤。赤。赤。
逃れられない。
血が靴の底に染み出して靴下を染める。そのまま、びちゃり、びちゃりと足の裏を侵して指の間を歩き出す。
気持ち悪い。
血は終わりも見せずに次から次へとあふれ出して自分に対して向かってくる。
ふと、額から頬にかけて何かが垂れてきた。
手で触って確かめてみると、ぬめった液体だった。その色は赤い。
額だけではなく、頭皮から流れ出てくる。いや、これは髪の毛だったか。違う。
自分の髪は真紅でもなんでもない。劣化の証の朱色だったはずだ。
では、これは。これは何だというのか。
「ひっ」
喉の奥から悲鳴がもれた。それも空気を吸う音と同じようにかすれた声でぴちゃぴちゃという音がしているこの空間では、無いも同然の声。
その間にも、足元の血は足の爪を練って皮膚という皮膚に刷り込むように広がっていく。
赤が。赤が全身を支配する。
「…………!」
声が思ったように出ない。ひゅうひゅうという音ばかりが喉から出る。
どうしよう。
頭からの血が唇を滑って粘着していく。口が開かない。
そういえば鼻はどうなった?血が、血が埋めつくして膜が出来上がっている。呼吸が出来ない。
だけど意識は鮮明で。
ほこっと血が盛り上がった。
まさかと思う。
まだ塞がっていない重い血のついたまぶたを見開く。
人が立っていた。
「殺しただろ」
ぼそっと血の人間が喋る。
相変わらず声が出ない。足元の血が、もう足首をかちんこちんに固めている。
「殺しただろ」
ぐっと顔らしき部分を寄せてくる。その吐息は感じられない。
その血の固まりは不自然に長い腕を伸ばして、こちらを抱き込んでくる。
「一緒にいこう」
べちゃ
その音が一番ふさわしい。
寄りかかってきたのか。血が全身にふりかかる。息は出来ない。逃げられない。
視界一面の赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤……。
「うあぁぁぁあああぁ゛」
急に声が自由になった。
喉からあふれでた叫びが、部屋中に響く。
ここがバチカルの私室だという事はすぐに分かったが、声は止まらなかった。我慢していたものが途端に自由になって抑えが効かない状態。
「あぁあぁぁぁああっ……かはっ」
それでも体中の酸素がなくなると、声は止まって、逆に硬直した体だけが残る。
どうやって呼吸していたのかも忘れた。苦しいのに息が出来ない。さっきの続きだろうか。
部屋がしんっとなっていて、月明かりだけが見守っている。
「っかはっ」
喉から空咳が一つ漏れた。とたんに体が呼吸を始める。
「はぁはぁはぁ」
荒い呼吸が静かだった部屋に響く。
口がしまらなくて、よだれがだらしなく垂れた。震える手でサイドボードに用意してあったハンドタオルを取り、口を拭う。
また、叫んでしまった。
確か、明日は朝から旅で中断していた帝王学の教育がまた始まるという事だったから、今日は早めに床についたのに、月の位置は低い。もう朝が近いのか。でも部屋の気温はまだ夜明けの厳しさをかもしていない。
……まだ眠ってから時間がそんなに経っていない。
呼吸が整ってタオルを置く。水差しに入っている水をコップに移して、喉をうるおした。心臓はまだバクバクと破裂しそうな音を立てている。
「ちくしょ」
ベッドを降り、窓辺に近寄って窓を明けた。ひんやりとした空気が部屋に流れこんで、よどんだ空気を綺麗に、どこかに運んでいった。くすんだ気持ちだけが胸に残る。
少し前までは窓を明けていると金髪の使用人がまたに遊びに来てくれたが、今は遠い空の下だ。来てくれる距離でもない。
何を思うわけでもなく、静かに窓辺で風に当たっていると廊下がバタバタと慌ただしい足音が近づいてくる。そしてこの部屋の前でピタリと止まるとノックの音と控え目なメイドの声がした。
「ルーク様。失礼してもよろしいですか?」
毎晩の事とは言え、メイドが寝ずの番で自分の事を心配してくれるのはくすぐったい。前なら当たり前だと思っていたが、今は……自分がレプリカだという事を知った今でも変わらない対応をしてくれるのが有難い。
「あぁ。入れ」
だから、自分も変わらない態度で接する。メイドに有難うを言っては示しがつかないと教えてくれたのは、矢張りガイだったか?
「失礼します」
深々と頭を下げながら入ってきたメイドの手には新しいタオルとシーツがあった。
大分汗をかいていた事を思い出すと体がブルリと震えた。
メイドがベッドのシーツを取り替え、タオルも新しいものにする。
「ルーク様。お召し物をお替え下さい。そのような恰好では風邪を召します」
「ん?あぁ」
寒くなったので窓を閉じるとクローゼットから新しいしわの無い洋服を取り出す。眠気などみじんも残っていなかった。
「大丈夫ですか?何か温かいものをお持ちしましょうか?」
ルークの脱いだ服を拾いつつ汚れたタオルと一緒に予備のシーツに包み込んだ。
新しい服のさらりとした感触が気持ち良かった。
「いらない。つーか、今夜はもういいぞ」
「ルーク様?」
「今日は、もう寝ないから。お前達は休んでてくれ」
片手を振ってメイドを下がらせる。不審顔をしていたメイドも命令には逆らえずにそのまま退出した。メイドが頭を下げたまま扉の向こうに消える。
眠気が無い夜は退屈なだけだが、これ以上何度も迷惑をかけるわけにはいかない。しかし時間を潰せる本もなく、話をする相手もいない。
ふと見ると壁にかけっぱなしの剣が目に入った。屋敷に帰ってきてから、なんだかんだと手入れをしていなかったのを思い出すと、端に追いやられていた旅の荷物の中から油と布を取り出す。
剣は錆びてはいなかった。
スラリと抜いた刀身に移った自分の顔はひどくぼんやりしたもので頼りない。
キュポっと油の入った容器の蓋を開けて、手入れを始める。
いつだったか、人を斬るようになって独特の油が剣に着くようになった時、武器の手入れを教えてくれはのは確かジェイドだった気がする。
「ん?」
意外な名前が出てきた。
陰険眼鏡だとアッシュは言っていた気もするが、よく自分に対しては色々教えてくれた。血のついた服の洗い方も、剣の痛みにくい斬り方も。
ガイが教えにくかったり、勝手に見えない所で処分してくれるものも、ジェイドはいちいち嫌味つきで、教えてくれた。説明は嫌いだと言っていたが、流石に軍属であり師団長まで昇っただけあって面倒見は良い。
「旅の間はガイより世話になっちまったしな」
特に、自分がレプリカだと分かってから余計に。
ガイがカースロットの被害にあってから。
剣を磨き終わると錆び防止の油を塗って、乾燥した紙で刀身を包んだ。
鞘の中を専用の用具でささっと汚れを落として、剣を入れた。油の容器の蓋を閉めて、また旅の荷物にしまい込む。
使った先から片付ければ後の面倒もないし、同じ場所にしまえば、物をなくす心配もない。そう教えてくれたのも、ジェイドだったか。
「いまごろ、なにしてんのかな」
開け放たれた窓からにび色の空を見る。
きっと、相変わらずなんだろうなと思うけれど。
恋しいのだろうか。
あんな夢見の後なのに、自然と空を見る顔は微笑んでいた。
「っくしゅん」
「なんだ、ジェイド。風邪かぁ」
金髪に褐色の肌を持つ男は、そう言うとワイングラスをくぃとあおいだ。
「陛下、ほどほどになさいませんと」
と言いながらも、男のグラスに赤い液体…エンゲーブ産の高級赤ワインを注ぐ銀髪で優顔の男。
ついでにその二人の前には、こちらも金髪だが、肌は黄色のしかし二枚目な短髪の男が、矢張りグラスを傾けていた。
場所は何故か、マルクト帝国軍の第三者師団長の大佐殿の執務室だった。
接客用のソファに座り、そのテーブルの上にはツマミが乗っていてワインも何本も空いているものから、まだ封も空いていないものまであった。
しかし、この部屋の主である大佐殿といえば……事務机に向かってサラサラと書き物をしていた。
つまり、仕事をしていた。
「なーんだ、アスランっ心配しなくても俺は風邪なんか引かないぞ?」
ふふっと男くさい笑みを浮かべた皇帝はアスランと呼んだ男を引き寄せて胸におさめた。
わわっとアスランはワイン瓶をテーブルに戻して、胸に抱きしめられる。ほんのり酔っているのか、いつもは小言がつくのに今日は大人しく抱きしめられている。
「陛下。いちゃつくのなら、自室でお願いします」
「あーあーやだやだ。好きなヤツ一人に手も出せない男の妬みは醜いよなーガイラルディア?」
「俺に振らないで下さいよ…」
ちまちまとツマミをつまんでチビチビと呑んでいたガイが突然振られてむせる。
「げほっ…そのっ旦那は連絡取ってるのか?ルークとさ」
フォローのつもりだが、フォローになっていない事に気付いていないガイを睨みつつ、ジェイドはため息をついて机の上を片付ける。
ここ一番の自分の心労をこんな所で暴露するのは気にくわないが、どうもピオニーに当てられ、ガイに慰められると言わざるえない状況になる。なんだというのか。今日は。
第一、仕事中の執務室にいきなりメイドが入ってきて酒の準備と簡単な掃除をしていったのに驚いたというのに、そのままフリングスが来て、ガイが来て、真打ち同様のピオニーが現れた時点で悪い予感はしていたのだ。
そんな予感はいつだって外れた試しがない。
机を片付け終えて、円座に加わる。気を効かせたガイがグラスに水割りを作ってジェイドに渡した。
「手紙なら出しました」
ぽそり。
精一杯の自分からの譲歩だと言わんばかりに、そのままグラスに口を付けるジェイド。
「あぁ、旦那も出したのか」
「という事はガイも?」
「屋敷で退屈してんじゃないかと思ってな」
けどなぁとガイは言葉をにごす。
「マルクト帝国からの手紙を旦那様が通してくれるかってのが分からなくてな」
カランと空になったガイのグラスの中で氷が溶けて転がる。
それはジェイドも感じていた。マルクト嫌いのファブレ公爵。
何度か旅の途中に顔を合わせたが、かなりいい顔はしていなかった。露骨な程の嫌悪は自分の後ろにいるマルクト帝国を睨んでいた。
その男が……。
「あの旦那様なら俺からの手紙も握り潰しそうだし」
やれやれと肩をすくめる。
どうやらガイにも手紙の返事は来ていないらしい。
それを聞いて少しばから安心する。自分だけではなかった。
「まどろっこしいのな。いっその事、この機会に本当の親善大使としての来国を要請すればいいんじゃないのか?」
それで、いいんじゃね?と笑う皇帝をじとーっとジェイドが睨む。
「あの子はまだ世間を知りませんし、勉強不足ですよ」
「建前だよ、建前。こんなに魂胆見え見えな依頼なんか出せるかよ」
再び空いたピオニーのグラスを取ってフリングスはワインを注いだグラスを渡す。
「どうぞ、陛下」
「さんきゅ、アスラン」
ガイがピオニーを見て、尋ねた。
「魂胆ってのは何です?」
ジェイドは澄ました顔をして酒を呑んでいる。
その様子を見たピオニーはちっと舌打ち、面倒そうに頭をかいた。
「外郭大地の下降、地形の変化、預言の禁止、国民の不安」
指を一つ一つ立てていく。
「ルークのレプリカ問題……和平を約束した者同士、表面は穏やかだがな。いつでも開戦出来るし、いつでも準備は整ってるんだ」
「陛下……それは」
ガイの声と表情の温度が下がる。
それでは、ホドと同じだ。平和条約締結の時に誓わせた事が無意味になってしまう。
「おぉっと、そんな熱くなんなって」
いつの間にか空いていたガイのグラスに酒を注いでやる。
「少なくとも、俺が政務に携わっている間はさせないぞ、ガイラルディア。安心しろ」
「じゃぁ、ルークを呼ぶ事での障害って何なんですか」
「キムラスカ王国の譜業の技術とマルクト帝国の譜術力の、交換外交です」
フリングスがピオニーの代わりに答えた。
ガイがあぁと納得したように言った。
「問題は山積みだからな」
「違いますよ、ガイ」
ジェイドがそれを制した。
平和になれば豊かな暮らしが出来る。お互いの国の特化した技術を合わせれば、またいつ世界が危険になっても大丈夫だ。
そう思ったガイにジェイドは言った。
「あちらはルークを差し出してきます。こちらはルークを預かります。さて、うちの皇帝には跡取りがいません。名代は臣下のうちの誰かでしょう」
これでは実質、こちらがルークの世話をしている。代わりの務まらない、国の血を宿す体。
あちらが何も思わないのか。
こちらが誰も何もしないというのか。
ぐっと黙ったガイを見てジェイドはため息をついた。
「力関係というのは一朝一夜では落ち着きませんから」
今日は酔っ払ってるんですか?ジェイドが視線だけで訴える。
ガイがポリポリと頭をかいた。
「まぁまぁ、話がずれたけども、今一番知りたいのはジェイドの事だ。で、手紙には何て?」
「なーんで陛下にそこまで教えないといけないんですか」
「俺、皇帝。お前、臣下。おーさまの言うことはー?」
「プライバシーの侵害で訴えますよ、小山の大将」
第一、人の執務室をなんだと思ってるんですか。じっとりじとーと睨んでいると、ピオニーはあからさまな嘘泣きでフリングスに抱きつく。
「うわーんっアスランっ俺のマルクトが馬鹿にされた!ついでにあいつ不敬罪で牢獄行きだぁぁ」
「落ち着いて下さい、陛下。間違いなく、陛下が悪いですからご安心下さい」
ニコリ。
微笑みの天使は鋭い凶器を隠し持っていたようだ。
「ちょ、ガイラルディア。お前はどっちの味方なんだっ」
「俺はブウサギの味方です」
追い討ちをかける、ホドの領主。
ピオニーがしくしくと嘘泣きを続行しながら立ち上がった。
「もういい。部屋に帰る!」
「えーえーさっさと帰って下さい。ついでにフリングス少将も持ち帰って下さいね」
「ちょ、ジェイド大佐…!」
「当然だーよっと」
掛け声一つでフリングスを脇に抱えるピオニー。ジタバタするフリングスを抱きかかえて、鼻をすすりながら去っていく。
ガイとジェイドだけが残された。
部屋には祭りの後の静けさが広がる。一人で五月蝿い人間とは正しくピオニーの事だろう。
「っと、そろそろ俺も退散しようか」
「ガイ」
「……はい」
腰を上げかけたところでジェイドの鋭い声が飛んで、またストンと腰を下ろす。
「ルークは」
「ん?」
「……いえ。何でもありません。呑みますか?」
言葉を飲み込んで、ガイのグラスへとアルコールを注いだ。
自分にはその資格もない。
窓から見える月が、綺麗だった。
「旦那……」
何か言いたそうなガイを直視出来なかった。
永い、悪夢の様な一月は突然に終わりを告げた。
そろそろ昼夜逆転も、父親の嫌味にも大分慣れた頃だった。
ラムダスから渡された手紙には元使用人のものはあったがマルクト帝国からの手紙はそれだけだった。分かっていた。彼はそんな人じゃない。ただ、自分が勝手に慕っていただけ。
生まれたばかりの胸にあるほのかな想いが、勝手に彼を求めていただけ。
忘れものを思い出して港から一度屋敷へと帰る。
思いつきのまま港へと行ったが、荷物を忘れていた。みんなに会いに行くなら、剣の手入れ道具も全部持って行かなければならない。港から街への街道には魔物が出る。今のルークの敵ではないが、流石に素手では若干不安だ。
だから荷物を。
ガチャリと屋敷の扉を開ける、
すると、玄関先だというのにラムダスを囲むようにしてメイド達が何やら険悪な雰囲気で話しをしていた。
「ラムダス様!どうしてルーク様にお渡しにならなかったんですか!」
「そうです!ルーク様あんなに毎晩苦しんでいらしたんですよ」
「しかしマルクト軍じ」
「和平のなった今、かつての敵国は良き友人になったと旦那様は仰っていましたわ」
何やら自分が原因だと言う事は良く分かった。
熱心に話し合いをしていて、こちらに気付かないメイド達へと声をかけようと近付くと、一人がルークの足音に気付いて、ぱぁと顔が晴れやかになる。
「ルーク様!良かった!」
その高い一言で、メイドは一斉に振り返りラムダスはしまったと顔をしかめた。
「忘れものがあったから一回戻って来たんだけど…邪魔だったかな」
「良かったですわ!ルーク様」
良かった良かったと繰り返すメイドにたじろぎつつ、部屋へ向かおうと、中庭に足を向ける。
と。メイドの一人がルークにずぃっと差し出す。
「ルーク様!お手紙です!」
「る、ルーク様!違いますぞ!それはただの封書に御座居ます!」
「ラムダス様は黙ってて下さい!」
ぴしゃりとメイドの声が飛ぶ。
怖ぇぇ。
旅の途中、女性陣に対して何度か思ったが、この屋敷のメイドも同じ属性らしい。
旦那様に怒られますと、小さな声が聞こえてきたがメイド達は一向に構わず、ルークに一通の手紙を差し出した。
それは見覚えのある綺麗な文字で、見覚えのある名前が書いてあった。マルクトの印が押してあり、リターンアドレスは首都グランコクマ。
私的なもののためか身分も帝国印も一切記されていない。
ルーク宛の、差出元ジェイド・カーティス。
待ち焦がれてやまなかった、その人からの手紙。
一瞬、理解が遅れたがメイド達の眼差しで、はっと我にかえる。
何やらメイドの視線が熱い。
「あ、有難う」
お礼を待っていたのかと思い労いもかねて言ったが、メイド達はキラキラと目を輝かせている。
ここで手紙を開けというのだろうか。ラムダスもいるし、あのジェイドだから肝心な事は隠しているだろうが、万が一、夜に悲鳴を上げる事について書かれていては、屋敷の者も手伝って更に屋敷に幽閉される可能性もある。旅が原因だったのだ、と。
どうしたものかと戸惑っていると、メイドの一人が口を開いた。
「そのカーティス様って、以前ルーク様と一緒にいらっしゃったマルクト軍人の方ですよね?」
「ん? あ、あぁ」
それ位はどうという事は無い。
周知の事である。
「あのセシル将軍が負けた戦の相手ですよね?」
「あのカーティス家の次期当主様ですよね?」
「マルクト皇帝の幼馴染みとか」
メイド達が次々とうっとりと目を細める。
……いいたい事は分かった。言わせたい事も分かった。
「……また今度、屋敷に呼ぶよ」
きゃー!と黄色い悲鳴が上がった。
どうやらジェイドは世間のメイドには好かれるタイプらしい。
メイドだって貴族の娘である。狙いのつけられる人物はターゲットにしているのだろう。多少年齢はいっていると思うが、家柄と物腰、容姿に魅力を感じているのか。
「ルーク様、宜しくお願いしますねっ」
ラムダスとルークをその場に残して、すっきりしたメイド達は仕事に戻っていく。
頭を抑えながら、言い訳を考えているラムダスを見ながらも、ルークは自分の部屋へと戻る。
荷物を持って、行かなくては。
手紙を持つ手が震える。
手紙には、何て書いてあるのだろう。みんなからの手紙の入ったポケットよりも、彼からの手紙を握った手紙を持つ手が気になる。
駄目だ。
港に着いて、船が出航した後じゃないと邪魔が入る。
ガチャリと部屋を開けて、荷物を見る。あの夜から再び動かされる事の無かった荷物。
それを見ながら……ルークは手紙を震えながら開いていた。
心が待ちきれなかった。
足元でミュウが心配そうにこちらを見上げている。
目が、文字を追う。
「ミュウ」
「はいですの、ご主人様」
行き先、変更だよ。
そう言いながら、後回しにした荷物を拾う。
「ミュウ?ダアトに行かないんですの?」
「いや。ちょっとケセドニアに寄る事にした」
ミュウが慣れたようにルークの荷物に滑り込む。
扉を開けて、屋敷の外へ。
空は青くて風が温かい。
あの人の元へ。
相変わらず砂埃の多い街だった。それでも人々の雑踏や活気は魔界への降格が嘘の様に変わらない。
「そこの兄さん、珍しい食べ物があんだい、どうだ?」
ルークは砂塵の街で店の主人をやんわりと誘いを断りつつ、アスターの屋敷に足を早める。
「ご主人様、アスターさんのお屋敷に行くですの?」
「ん、ちょっとな」
相変わらず美しさと不気味さを兼ね備えた屋敷が見え、心臓が高鳴る。
長い階段を登り、重厚な扉をカタカタとノックする。すると見知った顔の使用人が現れ、ルークの顔を見るとニコリと愛想の良い笑みを浮かべ、客室へと通した。
「おやおやルーク様。如何なさいました?」
やがて現れたアスターが揉み手をして、ルークに頭を下げた。
「久しぶり。あのさ、ジェイドから手紙貰ったんだけど」
「カーティス大佐?あぁ例の用件ですね」
パンパンとアスターが手を鳴らすと、先ほどの使用人が何かを盆に乗せて持ってきた。それをアスターにしずしずと渡し、下がる。
「こちらを、ルーク様」
また、手紙だった。
「先日届きました。あまり心配をかけさせてはいけませんよ、ルーク様」
ニコリと、笑われた。
珍しくいやらしい笑みではなく人の良さそうな優しい微笑みを浮かべたアスターの前で、すすめられるままに手紙を開けた。
宛先も何も書かれていない封筒の中から、ふと、懐かしい香りのした便箋が出てくる。
これは……。
「ルーク様は本当にカーティス大佐に大切にされていますね」
アスターが用意されていた紅茶をすする。
「その便箋からの香りが途切れたら、その封筒ごとカーティス大佐にお返しするようにと、お手紙がありましてね」
手が震えた。
涙腺が、壊れる。
「何が書かれているか知りませんが、直接あなた様にお渡ししなかったカーティス大佐の想いを汲み取って下さいませ」
胸いっぱいに香りを吸って、目を閉じた。
文字が、まともに読めない。まぶたから溢れた涙が目尻から頬を伝って、あの人の香りが染み付いた紙へ落ちた。
「ルーク様」
アスターが、たしなめるような、なだめるような声でルークを呼ぶ。
「手紙を」
読みなさい。
忙しい時間を割いて書いたのだから。
あの人が私用で手紙を出すのは大変な事なのだから。
貴族の出した手紙。まして元・敵国軍人からのプライベートなもの。こんな都市じゃなければ、スパイ疑惑をかけられてしまう。
かさりと手紙を開いた。
危険を犯した、その手紙には、一言…………。