『のぢしゃ物語』 最終話
きぃんっと金属がこすれあう音が風に乗って響く。ジェイドの唇からは絶えずに譜術が刻まれて、圧縮された空気が次々にジェイドの周りを浮遊した。しかし、それはヴァンも同じ事で、ヴァンの回りも同様に、小さい譜術の塊が浮いている。吐息一つで爆ぜる譜術は相手のスキを見つけるたびに小競り合いする。
譜術としては互角。しかし。
「……流石はヴァン。腕は確かなようですね」
何度か武器を合わせただけで、ジェイドに小さい傷が増えていく。致命傷ではないが、細かい傷は体力を奪う。
「カーティス家も良い養子を取ったようだな。なるほど、譜術だけではないか」
幾分、大きい譜術を使うにも詠唱に時間が掛かる。足止め用に小さい譜術とヴァンの剣を受け止めるだけで腕がじぃんっと痺れた。重たい一撃だ。
勝てるのか。
いや、勝たなければならない。ルークの心を奪うために。
あの塔のあの瞬間から、自分の元に来る事を選んだ、彼を、解き放つために。
「ジェイドっ!!」
ヴァンの譜術がジェイドの眼鏡を飛ばした。その衝撃でジェイドの額に傷が走る。額から流れる血がどろりと垂れてジェイドは思わず片目を瞑った。
ルークの悲鳴のような声と同時にヴァンの重たい一撃が再び槍にのしかかる。
血が唇にまで垂れて、あごを下って服に染みを作る。思い出すのはどこかのふぬけた皇帝の顔。勿論、「なさけー傷だなぁ」と笑っている。この状況で彼の顔を思い出すとは……情けなかった。一番気に入らないのは、その彼が脳内でちゃっかりルークの肩を抱いている事だが。
「負けるわけにはいきません」
「さぁ、勝てるかな? ネクロマンサー殿」
町外れの郊外で、周りに人は誰も無い。ここにいるのはジェイドとルークとヴァンだけだった。ルークの持つ短刀が震えている。いつ使うつもりなのか。その剣の柄には毒が塗ってあるというのに。
カサリと一歩を踏み出す音がやけに大きく響いた。
「いきます。次で……」
ジェイドの赤い目が大きく光を取り込んで輝く。
カサリと音が。また。
「それでどうしました?」
相槌を打ちながら長々と聞いていたが終わりが見えない。
ジェイドの手をいじりながら話していたルークも、へへへと笑うと、ジェイドにがばっと抱きついた。
「ここで目が覚めた!」
「は?」
夢に出てきたヴァンは、ガイは、ピオニーは、フリングスは。挙句に自分達二人は。
「どうなったんですか」
「知らね!」
「知らないって」
「だって、ここでジェイドが起こしたんだぞ!」
だったら話し始めるなという話だ。終わりが見えていない話など、未消化もこの上ない。
お仕置きですとルークの頬を思い切りつねると、ルークがいててと反抗してジェイドの頬をつねった。二人でお互いを押し合いしながらじゃれていると、腰掛けていたベッドにぼふっと倒れこむ。
ん? と互いに見詰め合った。
「ま、夢ですしね」
「だろ?」
ぶっと笑った。
「しかし、私があなたにべた惚れな夢ですね。まるであなたしか見えていないですねー」
「当然だろ? 俺が」
見る夢なんだから。
この夢さえも思い出に、俺は死んでいくから。
首を掻っ切れば良いのに、腕が動かない。
あの時、失敗してからほとんどベッドにしばりつけられてこの日を迎えた。
やっと外に出してもらえて、一番最初に洋服よりも先に渡されたナイフ。どうしろというのだ。このナイフを。
このナイフで、この首を切れば楽になれる。全てが収まる。ような気がした。なのに手が動かない。
でも失敗したのだ。
あの日からジェイドもほとんど口を聞いてくれない。
失敗したから、ヴァンは、自分を捨てる。
ジェイドに刃を向けた罪として、きっとピオニーもフリングスも、ガイも。ガイもきっと自分を捨てる。
お願いだから。
自分を嫌う世界を見る前に。
首を切らせて。
背後でカサリと草が鳴った。振り返ると、そこにはガイが立っていた。片手には長い剣を握っていたが、もう片手は空いていた。
「ガイ?」
「ルーク」
行こうと、手を差し伸べてくれる。
「旦那から頼まれてる。ヴァンから逃げるんだ」
キムラスカに帰る準備は出来ていると、ガイの唇が動く。でもそれでは。
「ジェイドが?」
目が大きく見開いた。自分はジェイドがいるから塔から逃げ出したのに。どうして今更、遠ざけようとするのか。
矢張り、見捨てるのだろうか。
ここまで一人を想ったのは初めてなのに。
「ルーク」
ガイが空いている手でルークの固まっている手首を掴んだ。時間が無いとばかりにぐいっと引っ張られるとルークがはっと顔を上げた。
お願い。
お願い。
世界の誰よりも、あの人のために生きようと、穢れた身体を差し出したのに。せめて汚れてない魂を差し出して。
戦場に舞う赤い血はまるで蝶のように華やかに。
結末は、夢の中に。