『朝が始まる』


朝がくると温かいジェイドの腕と毛布の中からこっそりと出て、部屋のカーテンを開ける。そしてキッチンへ向ってヤカンに水を張ってコンロにかける。朝のお茶の準備だけして、次は家中のカーテンを開けて光を入れる。
ダイニングに面した窓はカーテンを開けて更にガラスまでも開く。晴れていれば季節によって庭から甘い花の香りや水々しい緑の匂い、太陽の匂い、透き通った空気の匂いが鼻を楽しませてくれた。雨の日にはさぁぁぁという綺麗な音が部屋に溢れて、曇りの日には風が馨る。そういう変化が逃せられないで、いつも窓を開けてしまう。
上機嫌に尻尾が揺れて、変化を逃さないように耳も一緒にぴくぴく動く。今日も一日が始まった。
キッチンに戻ると、ヤカンから温かい蒸気がキッチンに満ちていた。しゅんしゅんと音を立てているヤカンからポットへとお湯を移して、居間のテーブルにお茶のセットを用意する。折角だから、はちみつやジャムも用意してスコーンを温めておく。これで朝の準備は大丈夫。起きてこないジェイドを起こすために寝室へと向った。
寝室に入ると、ルークが出てきたままの状態でジェイドは眠っていた。大抵の朝は一緒に起きたり、ともするとジェイドの方が先に起きていたりするのだが、最近は多忙を極めており、ルークが一人で先に帰っているという状態もあった。疲れているのかもしれない。その眠りは深いもので、パタパタと歩くルークの足音でも起きないほど。

「ジェイド、朝だよ」

そう言って枕元に顔を寄せる。
普段は気配に敏感なジェイドだが、起きない。しばらくすれば目を開けてくれるかもしれないと思ってそのままの体勢で待つが、きれの良いまぶたと長いまつげが主人の紅い瞳を隠して、その前では透けると黄金の髪がさらさらと長い垂れ幕を敷いている。
起きる気配が無い。

「じぇーどー、起きて〜」

ゆさゆさとジェイドの肩を揺さぶる。すると「うぅ」と小さくうめき声が聞こえる。しかし瞳は開かず、それきり声もたてずに、すぅと寝息を立てる。
そういえば昨日も帰りが遅かった。
今日は仕事が休みと言っていたから別に無理に朝起きる事は無いのだが、自分だけ起きているのも寂しいし、ここのところ二人きりでゆっくりという時間も無かった。だから今日の休暇は朝から二人きりでーと言っていたし、スコーンだって紅茶だって良いものを用意しておいてた。素敵な朝の始まりのはずだったのだが……。
不意にルークのお腹が鳴った。きゅるるる。

「うぅ……」

一人で食べる食事は味気が無いと教えてくれたのはジェイドなのに。

「ジェイド! お腹減ったー。紅茶もスコーンも冷めちゃうよ」

ゆさゆさゆさ。先ほどと同じようにジェイドの肩を揺する。先ほどよりは多少強く。

「……ルーク」

やっとの事で気付いてもらえた。しかし目は閉じたままのジェイド。それでも声が聞こえたので嬉しくて「おはよっジェイド!」と言うと……。

「人参は残さず食べなさい……」

寝言だったらしい。開きかけていた唇はまた一文字に引き締められて。

「じぇーどぉー」

耳が垂れて尻尾もしょぼんと落ち込む。同時にまたきゅるるとお腹が鳴る。
お腹は減ったし、退屈だし、でもだからといって一人で食べる気にもなれない。
どうしよう、と考えているとガイから教わった、とっておきの方法を思い出した。なんでもジェイドには効果抜群で、必ず成功するから、ここぞという時にやってみろと教わった。
今が、その瞬間かもしれない。
そう思ったら行動は早かった。
まずは、ジェイドの上に乗っかる。

「よいしょっと」

ベッドに登って、眠っているジェイドの上にまたがる。なるべく体重をかけないように注意しながら慎重にジェイドの腹の上に腰を降ろす。尻尾も触らないように緊張して持ち上げておく。

「それで……」

この体勢でキスだった。しかも自分から。頬にではなくて唇に。
どうしてこの行動でジェイドに効果があるのかは分からないが、やらないよりはマシである。早く起きて一緒にご飯も食べて欲しいし、ゆっくり散歩もしたい。
ルークの視線が呼吸に合わせて上下するジェイドの胸から鎖骨へ、鎖骨から喉へ、喉からアゴへ、アゴから唇へと移る。形の良い薄い唇。知らぬ間に頬が赤くなるが、取り憑かれたように指先がジェイドの唇をなぞった。いつも、温かいキスをしてくれる、その唇に。
そろりと撫でると、背筋がゾクッとした。
(ど、どーか起きませんように)
起こすためにやっているのに、本末転倒。この瞬間だけは目を開けて欲しくない。赤いだけじゃなくて、きっと困った顔をしているから。
ゆっくりと上体を傾けて顔を近づける。このまま唸っていても仕方が無いし、ガイの言う事も検証したいし、何より落ち着かない。心臓の音がバクバク煩くて、どうにかしたい。
尻尾がピンと立って、耳もぴくぴく動いている。熱にうかされたように、キスをしようとした。

「っひゃっ!」

その瞬間に紅い目はぱちりと開いた。
なにもこの瞬間に開かなくともよいのに、無常にもジェイドはにこりと微笑んで。

「お早う御座います、ルーク」

と何事もなかったかのように挨拶をしてきた。布団からもこもこと出された手はルークの近すぎる位置にある頬を撫でて、その赤いルークの顔を楽しんでいる。今度は寝ぼけているという事は無いらしく、目はしっかりと開いていて、ドキドキをくれた唇は優しく笑っている。

「い、いつ、おき……」
「あなたが私の上に乗った辺りからですかねー」

蛇に睨まれたかのように動けなくなる。

「ど、どうしてすぐに起きてくれなかったんだ!」

それでも口だけは動かして。でも声は震えていた。恥ずかしい。この姿勢も、これから何をしようとしていたのかと知られた事も。
起きて欲しくてガイに教わった事を実行しようとしていたが、だけどあの瞬間は確かに起きて欲しくなかったわけで。その最重要のタイミングで起きられるとは思わなかった。
ジェイドの手がするりと耳の位置まで持ち上がり、ワシワシと撫でれくれる。それがとても気持ちが良くて、やさくれかけていた気持ちもほんわりと溶かされた。撫でれくれる手が気持ちよい。その手を追うように頬をすりよせてしまう。鼻もすんすんといわせてジェイドの肌の匂いを追う。
……と。
うやむやにされているのか、自分の注意が足りないのか。
なだめられてる?
はっとなって視線をジェイドに戻すと、ジェイドはくすくすと笑っていた。
頬が赤くなる。

「あなたの行動があまりに可愛すぎたので起きるタイミングを逃したんですよ」
「いま起きられるほうが、すっごいタイミング悪かった!」

よりによって一番顔が近づいた時に目を開けなくたっていいじゃないか!
ふーっと尻尾が震えてピンと立つ。
相変わらず頭を撫でていた手を無理矢理外す。

「おや。貴方の顔を間近で見たい気持ちに、良いも悪いもないと思います」

出来る事ならずっと見ていたいんですよ。そういう風に言われると弱い。先ほどとは違った理由で頬が染まった。力なくヘロヘロとジェイドの胸に頭を降ろす。

「もういいよぉ……」

多分、口では勝てない。それよりも。

「それよりも目覚めのキスを下さるんじゃなかったんですか?」

思考とジェイドの言葉がかぶった。しかも何かが違う。それよりも「ジェイドが起きたのだから良しとしよう」と続けるはずだった。しかし、ジェイドの言葉には……自分の先の行動を読まれていたものがあった。
胸に落ちてきたルークの背中と腰に手を回しつつジェイドはルークを見る。

「あなたが最初に私の上に乗ってきたときは驚きましたけどね」
「? なんで焦るんだ?」
「……大人の都合です」

思わずこぼした言葉はルークが理解するにはちょっと早かったらしい。ルークがどうして上に乗ってきたのか謎だが、ずいぶんこちらの意思を試す真似をしてくれたものだ。
難しい顔でしかし笑っているジェイドをキョトンと見つめつつも、自分の行動が見透かされていて、しかもそれを実行するようにお願いされている状況で、緊張が解けないルーク。逃げたいのだが、ジェイドの腕が、がっちりとルークを固定しているのだから仕様が無い。しかしなるべくなら、自分からのキスは恥ずかしいので回避したい。

「でも、ジェイド起きたし。お腹減ったしさ。紅茶もスコーンも冷めちゃうし。もう起きようよ」

尻尾をわざとパタパタさせてジェイドを急かす。
早くジェイドの上から降りたい。でなくとも心臓がずっとばくばく大きな音を立てているのに。この至近距離も密着した体も何もかもが都合が悪い。なんだか意識してしまう。いつもと同じなのに。
そんなルークを見透かしてか否か残酷にもジェイドが言う。

「キスしてくれないと起きません」

優しい口調とは裏腹に、内容はとても恥ずかしい。
だけれども、その言葉には確かに魔法がかかっていて。先ほど、ジェイドの唇を撫でた時のような痺れが背中に走った。甘い、魔法。
しかし恥ずかしさのあまり固まってしまう。そうしていると、ジェイドが小さく「ルーク?」と呼ぶ。柔らかく微笑むジェイドがまたルークの耳を撫でる。その温かい手がするりと頬まで降りてきて、ルークの唇を導いた。
動悸が早鐘のようで、緊張して唇を硬く結んでしまっていたけど、ジェイドの吐息の導くままに。
ちゅ。

「おはよう、ジェイド」
「おはようございます、ルーク。良い朝ですね」

一日が始まった。それはとある花の香りが高い、空の澄んだ朝の日のお話。



END







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