『失うもの』
「いやだ!」
噛み締めた唇の端が切れた。
その流れた血が顎を伝わり血の気を失った彼の頬へ落ちた。
ぽたり。
それは滲んで、また垂れる。
綺麗な血なんて存在しない。それは濁っていて汚い。なのに温かいと思うのは何故だろう。
力の入らない手を伸ばして、その頬に触れた。
「泣かないで、ルーク」
「死なないで、死なないでジェイド!俺が助けるから!」
ハハと力無く笑い横たわる男の腹には可能性の無い大きい空洞があった。
その震える手が頬を撫でて落ちそうになるのを、両手で掴み助ける。
「ねぇ、死なないで。ジェイド、ジェイド」
「ふふ、そんなに泣いたら目がこぼれ落ちますよ」
ぽたぽた。
今度は涙が落ちる。彼はこんなに必死なのに自分ときたら悠長に温かい涙を心地良いと思ってしまった。
「ねぇ、今度生まれ変わったら、また恋人になって下さいますか?」
霞んだ瞳。
力が入らない。
ちゃんと喋れているかも分からないが、口先からちゃんと言葉は出ているはずだ。
「馬鹿!生まれ変わったら、それはもう、今の俺とジェイドじゃない!違うヤツラの話だ!」
「あぁそうですねぇ。非現実的ですしねぇ」
腕が持ち上がらない。
甘美だ。
苦痛がない。
しかし出来ない事ばかりだ。最期に、この子と吐息を交わしたい。力一杯抱き締めたい。
手が、震えた。支えて貰わないと触れているのも難しい。
「ルーク、お願い……です」
ひゅうと音がした。
この音は限界を告げる音。
「なに、ジェイド、なに?」
「……を……」
声にならない。
音にならない。
感覚がない。
「ジェイド、目を閉じんな!」
「……っ……っ……?」
ひゅう。
ひゅう。
鳴るのは音だけ。
唇を言葉の形に作っても気付いてもらえない。
「…………」
言葉を作る。
しかし全てが意識をドロリと溶かして視界をかすませていた。
何も伝わらない。
それが。
「じぇいど?……やだ、やだ、やだやだやだぁ!」
冷たい乾いた風に乗ったまま、帰らない時間。遠くで叫ぶ子どもの声を聞いた。
急に意識が浮上した。
光にまばゆい時間が一気に全身を貫いたかと思うと、それがごく自然な事のように上へと引っ張られたのだ。
目を開ければ強い朝日に視界がくらみ、うっすらと最期の景色を消していく。
とても大事な夢を見ていた気がする。
「おい、大丈夫か?」
すぐ横から声がかけられ、誰かと視線を向けると赤毛の少年がいた。
瞳は翡翠。
少し高いハスキートーンで、少しばかり舌ったらずだ。
「?」
ただ名前が思い出せない。
「ジェイド?どうした?」
ジェイド、というのは誰だろうか。
喉から声を出そうとする。
「……っ」
出ない。
まるでどうやれば声が出せたのか分からなくなったように身体の中から外へ意識の伝達手段が思いつかない。
そうだ文字を書こうと辺りを探すが、何も見つからない。
ここは寝室らしい。
「あ、まーだ寝惚けてんだろ。だから夜遅くまで起きてんなって言ったろ?」
笑いながら起き上がる少年。どうやら自分は、この少年と同じベッドで眠っていたらしい。何故、どうして?
それまで一体だった体温の一部が抜けて、ぽっかりと空いた場所に冷たい空気が抜ける。
ぶるりと身震いした。
「ほれ、ちゃっちゃと起きないと朝飯食いっぱぐれるぞ」
恥ずかしげもなく、隠す事もせず、赤毛の少年は寝間着を脱いで壁に追いやってあった荷物の中から衣服を取り出し身につける。
そして全く動こうとしないこちらの様子を見て取ると、ため息をつきながら歩み寄り、顔を近付ける。
ちゅっ。
可愛らしい音を立てて唇が唇に重なったと思うと離れた。
「……!」
「ほら、目が覚めたか?」
へへっと頬を赤らめた少年。
心の底に一瞬温かいものが生じたが、すぐに分散し、残ったのは今の行為が何を意味するかという疑問だ。
恐らくは呆けて表情になっているであろう自分の頭を赤毛の少年はまるで小さい子どもをあやすように撫でた。
「さ、起きて。行こう!」
ぐぃっと身体を起こされる。
その拍子に身体が少年に倒れ込み、その胸に飛び込む形になった。ふわりと少年特有の裸の香りがして胸が高鳴る。知っている匂いなのだろうか。
一瞬だけ何かが頭の中を素早く駆け巡り、どこかへと消えた。
少年はじゃれたと勘違いしたのか、また笑った。
「ほれ、ふざけてないで!」
無理矢理立たせられた。
腕出してーと、世話焼きで少年が服を着せ出す。
どうにかして自分の意識の伝達手段が欲しい。もどかしい思いに掻き立てられて、自分より一回り小柄な身体を……突き飛ばした。
「わっ!」
どてっと盛大に尻餅をついた少年を見る。
どうやら本気でこちらの異変に気付いたのか、かすかに眉をひそめ、こちらを凝視している。
「ジェイド?」
だから『ジェイド』とは誰なのだ。
少年は何故にこうも自分に触れたがるのか。
分からない。
気持ち悪い。
「……あああああ!」
その瞬間にうなり声……もはや雄叫びに近い声がようやく喉の奥底から出た。
すさまじい声を出しながら、どうにかして意思を伝達すべきか考えた。何もない。
キョロキョロ見回すが書くものがない、そういえば文字が書けない、書き方が分からない。
ここはどこで、自分が誰で、一体何が起こったというのだ。
分からない。
気持ち悪い。
世界が怖い。
誰だ、何だ、ここは何を求める場所なのか。
ぽっかりと胸の奥底から湧き出でる叫びが部屋に響く。
「ああぁぁあぁあぁあああぁぁぁぁああ!」
「ジェイド!ジェイド落ち着いて!どうしたんだ!」
少年がジェイドという単語を出す度に虫酸が走る。
イライラした。
だから、それは誰の名前だというのか。
「あああああ!」
腕で。
少年よりも筋肉の付いた腕の先にある手のひらで。
硬いゲンコツを作ると、その赤毛の頭に力強く、振り落とした。
「っ……!」
ごん!とにぶい音がした。
それを機に自分のうめき声も止まった。
床に打ち付けられた少年は、打たれた頭を押さえながら驚いたように瞳を見開いた。
そしてボロリと涙を一粒こぼす。
「じぇ、ど?」
「う、あ……」
何とか言葉を出した少年の声は震えていた。
らしくもない、と、何も覚えていない頭の中で違う声が聞こえた。
それでも不満を表すように声を漏らせば少年はこちらに掴みかかってくる。不思議だ。以前にも感じたような既視感が支配した。
少年が座り込んでいる自分に近寄ってくる。
「なぁ、どうしたんだよ。ジェイド、ジェイド!」
その悲痛な叫びが耳の奥に不快に響く。
「いいの?いくら今の状態だからと言って、大佐があなたを受け入れるか分からないじゃない」
「いいんだ。ごめん、ティア。ワガママ言って」
喋る事はおろか、歩く事も出来なくなったジェイドを誰が中心となって介抱する役割はルークが自分から買って出た。
しかしルークの叫び声で駆けつけたガイは渋い顔をし、アニスもナタリアも決して良い顔をしたわけではない。
ティアも反対だった。
二人が恋仲だったのは暗黙の了解だった中、これからレムの塔に向かうという時期。突然の事態にしばらくの休息をダアトで取る事になった。
うかうかしていては死人が出るかもしれないが、それでもパーティーの頭脳が動けなくなったという事実は大きく、もし一時的なものなら数日で元に戻るはずだと判断したのだ。
「ルーク」
「大丈夫、大丈夫だよ、ティア」
お盆に食事を乗せてルークは深呼吸をする。今から入る部屋は朝のまま彼を置き去りに仲間から無理矢理立ち去らされたジェイドとの相部屋。
心配するティアにルークは笑いかけた。
そして部屋のノブを回す。
ガチャリと開いた部屋の中は相変わらずのままだ。
違うのはジェイドがベッドに戻っていて、いつも通りに眼鏡をかけ、背筋を伸ばしてこちらを見ている。一瞬、朝の一場面がジェイドの冗談ではなかったのかと思ったがジェイドの冷たい視線がまだ何も状況が変わっていない事を告げていた。
「ジェイド。朝は怖らせてごめん。一番不安なのはジェイドだよな」
食事を持ち上げてみせた。
「飯、腹減ってないか?」
ジェイドは低く唸るが、ルークの手にしている盆を見ると少しだけ警戒を弱めた。
良し、とルークはベッドに座っているジェイドの膝の上に盆を置き、自分は部屋の椅子をベッドに近寄せて座った。
しかし膝の上に盆を乗せてジェイドは一向に動こうとしない。それこそ温かいシチューの香りをかいで、ジェイドの腹からは空腹の音が小さく聞こえたのに、ジェイドは動かない。
「ジェイド……そっか」
何も知らないのか。
ルークは小さく呟いた。
自分もそうだったように。
ルークは匙を取った。
温かい湯気を立てているシチューをすくい、それをジェイドの口元に持って行った。
少し唸ったジェイドがシチューの匂いをかいで、それから舌先を伸ばし匙を慎重につつく。
熱かったのか、ぴっ!と舌先をすぐに戻し、整った顔を歪めながらジェイドは匙を睨んだ。
ごめんなとルークは笑い、匙に乗ったシチューをふーふーと冷まし、まず自分の口に入れた。
そしてジェイドにまた湯気の立った状態で差し出す。
やがてジェイドはふーふーと息を吹き掛け、舌先で匙をつつき……一口含んだ。
そして、うっすらと、分かる人間でしか分からない程度に頬を緩めた。その表情は変わらない。
「はい、パンも」
一口に千切って、まずは自分が食べてみる。それからジェイドにも渡してやる。
ジェイドがルークの真似をして食事を始めた。
「なぁ、俺の名前はルークだ。る、う、く。お前はジェイドだ。じ、ぇ、い、ど」
指を指して名前を教える。
声を発しようとするジェイドの唇は震え、尖っては噛み締める行動を繰り返して。
「うーう」
「そう、ルークだよ、ジェイド」
ジェイドの頭を撫でてルークの手は、震えていた。
そうしてその日、食事と簡単な会話が終わった後、ジェイドは眠りについた。
昏々と、瞳を閉じて深い呼吸を繰り返して、彼は眠った。
ルークはジェイドの傍に何をするわけでもなく、椅子に座ったまま、目が覚めた時に寂しくないようにと傍に、いた。
そして迎えた翌朝。
「あなたは誰で、私はどちら様でしょうか?」
言葉を取り戻したジェイドが無表情で、ベッドから起き上がった。
泣いちゃダメだと思うのに、溢れる涙は止まらなかった。
目を覚ましたジェイドはいつも通りの、以前まで愛を囁いていたジェイドの声だった。しかし、体温が供っていない。
生活習慣や、言葉の発し方は思い出していた。だが、相変わらず立ち上がる身体の動かし方を忘れ、ベッドから出られない状態だ。
昨日教えたはずの事は全て忘れ、自己紹介から始まった。
「ルーク、休んだ方が宜しいのでは無くて?酷い顔をなさっているわ」
「いいんだ、大丈夫」
ナタリアが持って来てくれた食事を受け取るとルークは再び扉を閉める。
二人きりで過ごす不安もある。
でも昨日は話せなかったのに、今日は話せる。そう思うと世間話をしている内に何かの拍子で思い出すのではないかと期待してしまうのだ。
「ジェイド、食事……」
「一人で頂けます。部屋から出て下さい」
「一人って体は動かないじゃないか、無理だろ」
「結構です。一人にして下さい」
やっと聞けたいつもの声が辛辣な言葉を紡ぐ。
ルークは黙ったまま食事の乗ったトレーをテーブルに置くと、ジェイドの眠るベッドへ近寄り枕を立ててジェイドを起こしてやった。
そして膝の上にトレーを乗せてやる。
横になっている間は外していた譜眼が暴走しないようにとの眼鏡もかけてやり、ルークは一息つくと傍に置いてあった椅子を部屋の隅に片付けた。
「部屋の外にいるから、何かあったら呼んで」
「……」
弛緩しきった身体で何が出来るのか謎だった。
今も枕にもたれかかる感じで起き上がっているジェイド。きっと腕だって動かない。あの姿勢以外は時間をかけても動けるのはわずか範囲に違いない。
それでもジェイドが望むならと、ルークはジェイドに微笑みかけながら部屋を、出た。
それを平然とした様子で眺めるジェイドに、かつての面影は無い。
翌日、今度は身体は動くが視覚を失い前日までの記憶を全て失ったジェイドがいた。
「じぇ、ど」
「声からすると青年のようですが。済みません、夢を見ているようで曖昧です。お尋ねしたいのですが、あなたはどちら様で私は何者なんでしょうか?」
ルークの頬を伝う涙がジェイドには見えない。
前日までのようにルークが介助しなければいけない状態ではないが、光の差す瞳はガラス玉のように一定の場所から動かない。ルークを見ているが網膜に映していない。
震えて仕方の無い手を握りしめた。
「俺は、ルーク。あんたはジェイドだよ」
せめて声だけは震えないように、精一杯、背筋を伸ばした。
そうこうしている内にいい加減、前に進まないといけないと仲間が動き始めた。
刻々と迫る世界のタイムリミットにこれ以上遅れを取るわけにはいかないと、ジェイドを置いていく形に話が進む。
記憶が戻る所か、必ず身体の一部が不自由になり、記憶は全て失ったままのジェイド。そしてボロボロになりながら寄り添うルークの姿をこれ以上見ていたくないのだ。
「俺は、ここに残る。ジェイドの傍にいたい」
「だけどヴァンの計画を止めないといけないだろ、ルーク」
「俺がいなくてもアッシュがいる。俺はジェイドが目覚めた時に一人にしたくないんだ」
今日は耳が聞こえないが身体は動かせるジェイドが宿の周りを散策中だ。
ルークが一人きりになったのを見計らうとガイはルークに仲間と話し合った結果を伝えるとルークは首を横に振った。
ピオニー皇帝に頼めば世話は大丈夫だと、アルビオールならグランコクマを経由して、そのまま目的地に行けると伝えるものの、両目を疲れで窪ませたルークは尚も気丈に首を振った。
「ジェイドが、寂しいだろ?」
その夜、耳の聞こえないジェイドの大きな独り言が部屋に響いた。
「生まれ変わりを信じますか?」
大小、声の大きさは統一されていない。耳が聞こえないのに喋るというのは大変な事だ。
ルークはペンと紙を持ち、いつでも筆談の準備を整えながら頷いた。
生まれ変わりはありえると、頷いたのだ。
「……」
それからジェイドはサラサラと紙に流麗な文字を書き出した。
曰く輪廻は非科学的だと。
曰く宗教の問題ではないかと。
そして。
生まれ変わっても全く同じ人生を、同じ意識で生きるわけではないと。
「うん、だってそれは違う俺達の人生だからな。俺達が横取りしていいものじゃない」
ルークはジェイドに教わって多少は上達した文字を紙に書き、ジェイドに渡した。
ジェイドはそれを見たまま、筆を走らせた。
「毎日あなたを忘れている私と一緒にいて苦しくないですか?」
ジェイドの表情は相変わらず無表情だ。意思が読み取れない。
ルークは黙ってペンを取る。
「苦しくないって言ったら嘘になる。だけどジェイドを一人きりにするのが一番怖いんだ」
さらさらとペンが紙の上を滑った。
「何故?」
耳が聞こえないジェイドに、ルークが鼻をすする音は聞こえない。
「愛しているから」
翌日も、ジェイドは全てを忘れていた。
ルークは記憶を失ったジェイドを見つめたまま、込み上げる嗚咽を飲み込んだものの立ちすくむ以外何も出来なかった。
そしてプッツリと何かが切れる音がした。
噛み締めた唇の端から血が垂れ、顎を伝う。
「あなたは……誰でしょうか。済みませんが自分の事も良く分からないのです」
数十回は繰り返された朝の光景が始まる。
「なんで?」
速くなる呼吸に合わせて心臓がドクドクと鳴った。喉がカラカラだ。視線がさ迷う。
なんでどうして、混乱が襲う。
今まで抑えてきたものが弾けたらしい。止まらない情動が駆け巡る。
「どうして忘れちゃうんだよ、どうして俺の事を覚えてないんだよ!」
力の抜けた膝が砕けて尻をつく。
「……?」
ジェイドはポカンとしたままルークを見つめている。
「毎日、違うジェイドに会うんだ。でも、俺は一人なんだよ。ねぇジェイド、帰ってきてよ。俺を知ってるジェイドはどこに消えたんだよ」
ねぇと手を伸ばすルークに触れるものは、無かった。
いつだったか交わされた会話の中に人は何故生まれてくるのかと話した事があった。
レプリカだとか卑屈な事を言い出した赤毛の子どもを青い軍服に身を包んだ男が抱き締めながら、自分に会う為に生まれてきたという理由はどうかと尋ねた。男の腕の中で子どもは真っ赤になり、猫なら全身の毛を逆立てただろうビクリと震え大声で馬鹿じゃねーの!と叫んだ。
酷いですねぇと笑う男に子どもは何の為に生きているんだ?と真面目に尋ねた。
すると男はあなたを愛する為ですよ、とか子どもが考えていた回答を大きく覆した。どうしようもないなとため息をつく子どもに、だから見捨てないで下さいねと男は笑いかける。
じゃぁしょうがないから、ずっと一緒にいてやるから約束しろと子どもは小指を差し出す。
何をですか?その小指をパクリとくわえた男を力一杯殴り子どもは俺の事を忘れんなと言った。
いつか消える運命があるなら最後まで覚えていて欲しいと。
男は笑った。
なら小指なんかよりも、ロマンチックに約束しましょう。
そう言って唇を重ねた。
この唇に、口付けに誓いましょう。いつか輪廻に巻き込まれた時にも、あなたを忘れない。
生まれ変わりなんて俺達じゃないだろ。
非科学的なのは分かっていますがね。
そうして二人で笑った。
ある日の会話だ。
これは誰の罪だ。